日本的霊性と華夷秩序のコスモロジー

2007-07-13 vendredi

第26回大拙忌のために大谷大学へ。
当日朝になって「中華なき辺境の宗教性」というタイトルを付したレジュメをつくって門脇先生のもとに送信。
新快速と地下鉄を乗り継いで北大路にゆき、大垣書店を覗くとなぜか私の本が並べてあって、そのそばに大拙忌講演の告知があった。
タイトルは「存在するとは別のしかたで-日本人の霊的成熟について」。
げ。
自分でつけた演題を忘れていた。
それというのも、講演で何を話すかぜんぜん決めない段階で思いつきのタイトルを送ったのがいけないのである。
予定していた内容が当日突然に変わったわけではなく、語るべき内容が当日朝になってようやくかたちをとったそのできたてほやほやのブランニューな理説をお聞かせしようではありませんか、ということなのであるが、そのような言い訳はもちろん世間には通らない。
私とて十分に準備をし、資料を渉猟し、文案を推敲し、これ以上のものはできない、という確信をもって演壇に登りたいのはやまやまなのであるが、それができれば苦労はしない。
締め切りの当日にならないと原稿を書かないというのはこのところの私の悪癖であるが、別にそういうプリンシプルを掲げているわけではなく、締め切りの前日は朝から晩まで働いているか、別の原稿の締め切り日であるかどちらかだからなのである。
私のような人間に仕事を依頼する方が依然として多いが、みなさまご自身が世間から良識を疑われるというリスクを冒しているということに十分に自覚的であるのだろうか。
ひとごとながら心配である。
大拙忌であるから、鈴木大拙がらみの話をしなければならない。
『日本的霊性』というのは私のような浅学のものには裨益するところの多い名著であり、これと吉本隆明の『最後の親鸞』を読めば誰でも浄土真宗のことがわかった気になることができる。
その『日本的霊性』に記述されているところの「日本的霊性」とはいかなるものかという問題を「日本の辺境性」という地政学的性格を手がかりにして解明しようという、(アイディア段階では)それなりに気宇壮大な企画だったのである。
このところ述べているように、華夷秩序における東夷であるところの日本列島は中華に対する相対的辺境である。
そして、浄土のあるべき「西方」は地理的にもわれわれの欲望の虚の中心であり、われわれの列島を過去1700年余にわたって冊封してきた宗主国の方位そのものである。
日本人の浄土信仰のうちに華夷秩序のコスモロジーが影響していないということはありえない。
とりあえず私はそう思っている。
けれども、そういう地政学的なことを宗教にからめて語る人はあまりおられない。
でも、宗教というのは生身の人間の身の上に起こる出来事である。
人間の身の上に起きるすべてのことは宗教的な心性の形成に関与する。
そう考える方が合理的だろう。
地政心理学とか宗教地誌学という学問のあることを知らないが、そういうアプローチはかなり有効ではないか。
例えば、大阪の上町台地は浄土信仰がはっきりした空間的表象形式をまとっていた事実を地誌的にあらわしている。
知られているとおり、奈良時代まで、大阪を南北に走るかまぼこ型の上町台地の足元を大阪湾の波は洗っていた。
その台地の南端に聖徳太子は四天王寺を建立した。
瀬戸内海から大阪湾に入ってきた船が最初に眼にするランドマークはこの四天王寺の甍だったのである。
その四天王寺の石の西門からは海にしずむ太陽が見える。
謡曲『弱法師』にあるように、浄土を欣求する人々はこの門ごしに西方の海をみつめて浄土を思い、日想観(じっそうかん)を行ったのである。
上町台地の北端にはそれより約1000年のちに石山本願寺ができる。
上町台地はその南北端に浄土信仰の霊的センターをもつ特権的なトポスとなったのである。
今でも上町台地沿いの寺院の山門はことごとく西方を向いており、墓石もまた西方を向いている。
親鸞が信仰のありかたにおいて範とした人に平安時代の念仏者である教信沙弥がいる。
興福寺の学僧であった教信はあるとき寺を出て出奔し、西を指して、播州賀古郡西野口に至る。
その地での教信の生き方はこんなふうだった。

「草庵を結び、髪も剃らず爪をも切らず、袈裟および衣を着せず。また西方に墻(かき)せず。本尊を安置せず。妻女を帯して、里人に雇使され、或いは田畠を耕作し、或いは旅人の荷を運びて衣食し、常に南無阿弥陀仏を称し、昼夜休まず、人称して阿弥陀丸と言う。念仏の他万事を亡失せるが如し。」

教信沙弥における宗教的行為は二つしかない。
南無阿弥陀仏の称名(これがないとそもそも浄土教思想は成立しない)と「西方に墻せず」、すなわち西に対する開放性のみである。
本尊さえ無用として安置しなかった宗教者が西方に対しては開放性を確保していたというこの方位の優先性は私の注目を惹く。
西方は華夷秩序の中心たる「中華」の方位である。
東西方位を軸とするコスモロジーが列島人の宗教的構えを方位づけている。
華夷秩序は周縁に蟠居する夷戎たちの「欲望の虚の中心」でありつづけることによってしか機能しない。
欲望の中心はトラウマ的なものである。
実体として存在する必要はない。
というより実体として存在することができない。
「中原に鹿を逐う」というが、覇権をもとめて中原に攻め上ったものがそこに見出すのはつねに「廃位された皇帝」、もはや誰の欲望も喚起することのできない老人の屍骸だけである。
そして、自分が彼に代わって玉座に座った瞬間に、王位簒奪者は自分が永遠に「欲望する対象」を失ったことを知る。
華夷秩序を構造化する欲望は、その欲望を保持したままでは欲望を鎮静することができず、欲望が満たされたときに欲望はもうかげもかたちもなく消滅しているというかたちで永遠化される。
列島人たる東夷にこの欲望システムの布置における優位性があるとすれば、それは大陸と列島を隔てる空間的疎隔ゆえに、欲望が節度を失って活性化し、結果的に中華文明が列島人に提供しうる文化的価値よりさらに高度なものをそこに望見したということである。
この西方への欲望の過剰のうちに日本的霊性の萌芽がある。
おのれの外部にはおのれの理解も共感も絶した霊的境位が存在するという信憑を列島人はその霊的成熟の階梯の「第一段」として有していた。
「他者に対する開放性」という常套句を流用していえば、これはすぐれて宗教的な態度ということができるであろう。
その華夷秩序のコスモロジーに涵養された列島人の宗教性が親鸞において、どのようにコペルニクス的転回を遂げて、「此土即浄土」になったのか?
この転回はフロイトが分析主体における「トラウマ的体験」を分析者への「転移」に「すり替えた」のと構造的には同一のプロセスである、と私は考えるのであるが、そのような無茶なことを論拠もなしにだらだら話すと無事に大谷大学の門を出られそうもないので、ぜんぜん違う話をして逃げ帰る。
講演後に門脇老師、池上哲司先生ら、お招き下さった大谷大学の教員院生のみなさんと打ち上げ。
重荷をおろしてほっとしたので、ビールや焼酎をがぶがぶ飲んで、大瀧詠一やキャロル・キングの話で盛り上がる。
しかし、結果的には大拙忌にお招きいただいたことを奇貨としてはじめて「日本的霊性」という概念についてまじめに考えることになったわけであるから、このような機会を与えてくださった門脇老師に深く感謝せねばならないのである。
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