真栄平先生とアジアについて語る

2007-07-15 dimanche

颱風模様ですさまじい湿度の中で合気道のお稽古を終えて、ソッコーで大阪朝カルへ。
真栄平房昭先生との対談。
お題は「日本から見た中国、中国から見た日本」。
真栄平先生は神戸女学院大学の総文の同僚である。
近世日本史というより広く東アジア史がご専門で、その風通しの良い歴史観から私はこれまで大きな影響を受けてきた。
歴史が選択的に語り落としてきたものがある。
国民国家を基本単位とする一国史という枠組みにうまく収まらない出来事は歴史学からしばしばこぼれ落ちる。
真栄平先生はそのような出来事の専門家である。
先生は沖縄の人である。
沖縄はかつては琉球王国である。
琉球王国は独立王国であるような中国の属邦であるような日本の属邦であるようなあいまいな政治的立場にあった。
けれども、それは東アジアの共同体には「ありがち」なことである。
台湾もそうだったし、朝鮮半島も、ベトナムもそうだった。
近代的な意味での「国境」とか「国家主権」というものが地理的な「かたまり」として観念されるようになったのはヨーロッパにおいてさえ1648年のウェストファリア条約以後のことである。
主権と国境と国民の均質性が「ワンセット」として観念せられるようになったのはごく最近のことである。
忘れている人が多いので、大書しておくのである。
今でも隣接する国家間の軍事力や経済力のバランスによって、あるいは国民感情の親疎によって、国境や国民国家の一体感がつよく意識されるときもあれば、あまり意識されないときもある。
真栄平先生はこの「国境や国民国家の一体感があまり意識されない時期」、「意識されない地域」を生きていた人たちの歴史を専門的に研究している。
そういう点では遊行の民や海洋民の歴史を掘り起こした網野善彦さんと通じるところがある。
私が真栄平先生の史観に「風通しがよい」という印象を抱くのはおそらくそのせいである。
対談はベトナムの日本人村のこと、漢字文化圏のこと、ローレンス・トーブさんの儒教圏のこと・・・と話頭は転々したが、最後に尖閣列島の話になった。
尖閣列島、竹島、北方領土と、日本は沖縄返還以来の30年間、「国境線にかかわるトラブル」で外交的成果を一つもあげていない。
というよりトラブルの解決が遠のくような施策を選択的に打ち出している。
外交交渉で成果がゼロであり、今後もゼロであり続けることが高い確度で予測されるばあい、「その外交方針は間違っている蓋然性が高い」と推論するのが合理的である。
だが、領土問題については「どれほど外交成果がなくても、絶対に譲歩しない」ということがメディアを徴する限り国民的合意とされている。
たしかに国境線の確保は通貨の安定とともに国民国家にとって最優先の課題であるのは事実である。
だが、そのときに「死守すべき国境線」なるものが、いつ、どのようにして決定されたのかについて少しは歴史的に吟味してみた方がよいだろう。
尖閣列島についてはわが国が実効支配しているというのが外務省の公式見解である。
けれども、その起点の日付はかなり新しい。
1885年(明治18年)に内務卿山縣有朋はこの島の探索を沖縄県令に命じた。
県令はこの無人島には「清国所属ノ證跡ハ少シモ相見エ申サズ」、しかし日本国領土である証拠もまたなく、これを日本領土であるとする「国標」を建てるべきか否かの判断を内務省に委ねる上申書を送った。
内務省はこれに対する回答を保留した。
沖縄県令はその5年後の1890年に重ねて内務省に「国標」建設の可否について問い合わせた。
しかし、内務省は「清国ノ疑惑ヲ招」くことを恐れて、調査にとどめて、「国標」の設置については延期することを指示する。
ことの理非は措いて、少なくともこの時代の日本の政治家たちは(山縣有朋も陸奥宗光も)中国人が「国境」ということをどういうふうに観念しているか、それが日本人が採用した国境概念とは「別のものである」ということを知識としては知っていた。
しかし、1894年の日清戦争によって、「清国ノ疑惑」なんかどうでもよくなり、開戦の翌年の1895年に尖閣諸島への国標の設置が閣議決定される。
日清戦争が「国境」という概念についての、日中間の「定義」戦争であったということについては『街場の中国論』でいささか私見を記した。
そのことの繰り返しになるが、中華思想には「国境線」という概念がない。
帰属のさだかならぬ「グレーゾーン」が同心円的に周縁に拡がっていることは華夷秩序の「常態」だからである。
中国にとって、国境線を確定するということは、「ここからこっちは中国である」というかたちで支配権を確保することではなく、「ここからあっちは中国ではない」というかたちで支配権を放棄することを意味するのである。
わかりにくいメンタリティだが、これをふまえないと近代の中国の「異常な」外交的ふるまいは理解できない。
ひさしく中国はできるだけ国境線を「確定させない」ことを外交目標に隣国とかかわってきたのである。
日清戦争は「国境線を確定したくない国」と「国境線を確定したい国」とのあいだの「氷炭相入レザル」(陸奥宗光)原理の戦争であった。
その尖閣列島は敗戦後、サンフランシスコ条約に基づいてアメリカの施政権下におかれた。
そして、1972年の沖縄返還まで、米軍はここを「射爆場」に利用した。
沖縄返還後、同島は「沖縄県八重山郡石垣市」に所属しているが、中国台湾はこれを認めていない。
69年に巨大な埋蔵量をもつ海底油田が尖閣列島の周辺地域に発見されたせいで、中国台湾と日本が領有権を主張して、以来「綱引き」が続いているのはご案内の通りである。
いまの外交戦略を当事国がとっている限り、領土問題は解決しない。
だから、解決を望むなら「やり方」を変えるしかないと私は思う。
「目先のトラブルを解決することよりも、自分の判断にこだわることの方がたいせつだ」というふうに考える人の方が多ければ、領土問題は(戦争以外には)解決する道がない。
領土問題を解決できる(戦争以外の)唯一の方法は「当事者の誰もがその言い分を通すことのできず、全員にとってひとしく不利益であるようなソリューション」によってかろうじてフェアネスだけを確保することである。
だが、このような考え方に同意してくださる方はほとんど存在しないであろう。
そのようなソリューションを発見する能力をかつては(「大岡裁き」や「三人吉三庚申塚の場」が教えるように)「大人」の風儀に数えたのであるが、その美風も廃れてもはや久しいのである。
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