木曜は東京、金曜は大垣、土曜は岡山・・・連日の新幹線旅行。
東京は某外部資金調達のためのプロジェクトの口頭試問にでかける。
学長以下5名で、往復5時間かけて、審査時間は25分。
「お上」の体質というのは今も昔も変わらないものである。
審査の後、全員力なくうなだれて無言で帰路につく。
みなさんと別れて、学士会館で日経Kids+という雑誌のインタビュー。
気落ちしたあとなので、どうも頭のめぐりがよろしくない。
翌、金曜日はIAMAS(情報科学芸術大学院大学)の小林昌廣さんにメディア文化特講の講師に呼ばれていたので、大垣まででかける。
米原から在来線で40分ほど。関ヶ原を超えて岐阜県内である。
けっこう遠いです。
こばやんにはいろいろといつもご無理をお願いしている。たまにはご恩返しをしないといけないから、ゼミを休講にしてやってきたのである。
メディア・アート系の学校なのでちょっと雰囲気が違う。
発作的に思いついた「めちゃモテニッポン論:ラブリーな国へ」というタイトルで、「中華なき辺境を生きる日本人に未来はあるのか?」という情報とも科学とも芸術とも無縁なお話をする。
いったい、これはどういうカテゴリーに区分すべき講演なのか、自分でもよくわからない。
学生さんはしーんとして聴いている。
おもしろいのか、つまらないのか、よくわからない。
居酒屋のカウンターでかなり酔いがまわった段階ではじめて許される類の頭も尻尾もない話である。
11日の大拙忌の予行演習のつもりであったが、どうにもさっぱり宗教の話にならない。
困ったことになった。
どうも最近、講演の出来がよろしくない。
同じ話をしたくないので、毎回「新作」をおろしてゆくのだが、新作には当たり外れが多い(というか、外れのほうが多い)。
だいたいこんな話をしようと思って、現場に行っても「つかみ」のギャグで観客が無反応だと、もう一気にテンションが下がってしまう。
ものが新作だから、「ノリ」だけがたよりで、「グルーヴ」感が出てくると一気に最後までたたみ込めるのだが、「ノリ」が悪いと、もうどうしようもない。
古典落語だと話が作り込んであるので、粛々と最後まで話は進められるが、その場ででっちあげながらのインプロヴィゼーション小咄だから、観客がしーんとしているときにふと話が止まると、それで「おしまい」である。
最近はどこの会場でも観客の「ノリ」があまりよくない。
たぶん何冊か本を読んできて、きっとこの講師は「こんな話」をするのだろうと予期してきているので、「ぜんぜん違う話」が始まるとどう応接してよいかわからなくなって、みなさん黙り込んでしまうのであろう。
私を呼ぶ方はしばしば私の本の熱心な読者であるけれど、その方がお読みになっているのは、私が二三年前に考えていた話が活字化したものであり、私自身はそのことに今はもうぜんぜん興味がなかったりする。
聞き慣れたヒット曲を聴こうと楽しみにコンサートに行ったら、舞台に出て来たミュージシャンが「じゃあ、新作をやります。聴いて下さい」といって聴いたことのない曲をごりごり始めるということがある。
客はどっとしらける。
私自身も客の立場でそういう経験を何度もしてきた。
どうして、こいつらは「新曲」なんかやりたがるんだろう。そんなにいつもクリエイティヴでいたいわけか?と観客だった私はそういう「新作」志向にはけっこう批判的であったのだが、実際自分が舞台に立たされてみると、彼らの気持ちもよくわかるのである。
講演後、IAMASの学生院生教職員のみなさんと打ち上げ宴会。
たいへんにスマートで気分のよい諸君である。
会場が「しーん」としていたのは、別にしらけていたわけじゃなくて、集中して私の話を聴いてくれたいたせいのようである。
ああ、よかった。
在来線を乗り継いで芦屋まで帰る。
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(2007-07-07 11:10)