ヒット1000万のお礼に代えまして

2007-07-04 mercredi

ブログのヒット数が1000万を超えた。
1000万というのはよく考えるとたいした数である。
延べ1000万の人に私の「毒」が微量なりとはいえ回っているのである。
なんとなく、世間への「毒」のまわりが最近速いような気がするのは気のせいであろうか。
だいぶ以前のことであるが、「フェミニズムはもう終わった」と書いたことがある。
別に終わったわけではなく、まだたいへん意気軒昂であられたのだが、私としてはできるだけすみやかに終わってもらえるといいなあという主観的願望をあえて虚偽の客観的事実認知に託して書いたのであるが、しばらくして取材に来た某新聞社の記者が「フェミニズムはもう終わったわけですが・・・」と切り出したのにはびっくりした。
こういうのは「終わったねえ」というような遠い眼をする人が何人かいると、「あ、そうなんだ。終わったんだ・・・」という信憑が燎原の火のごとくに拡がり、あれよあれよというまにほんとに終わってしまうのである。
だから、思想に対する批判も、もっとも安直かつ常套的なのは「・・・はもう終わっている」とか「・・・はとっくに乗り越えられている」という口吻のものであり、事実これはたいへん効果的なのである。
この「・・・はもう終わった」という宣告にたいへん過敏に反応するのはおそらく日本人がひさしく属邦人であったことによるものと思われる。
属邦人の知的活動の基本構造は「新たな外来知識へのキャッチアップ」だからである。
自分自身の内側には見るべきものがなく、すぐれたものはすべて外部にあるというのは日本人の基本的なマインドセットである。
これはものを学ぶということに関してはたいへん効率の良い構えである。
それも当然。
自分のうちにすべての叡智が蔵されており、知的活動というのはその潜勢態の「自分らしさ」をただ発現することで尽くされるという人間に「学び」は固より不要のものである。
日本人のいう「自分らしさ」の追求というのは、自己探求というよりは、どちらかというと「いかに『これまでの自分』から離脱するか」という自己離脱に軸足を置いている。
現に、「自分探し」をする人はだいたいそれまでやっていた仕事を辞め、それまで住んでいた街を離れ、それまで付き合っていた人間と縁を切ろうとするものである。
これは自己探求というよりはむしろ「自己リセット」というに近いであろう。
自己探求と自己放棄が同義であることを誰も「変」だと思わないというのが属邦人の特徴である。
繰り返しいうように、これは別に悪いことではない。
ただしグローバル・スタンダード的にいうと、こんなことを国是としている国は日本以外には存在しない。
だから(ようやく話が戻ってきた)、日本は「毒の回りが速い」のである。
「リセット」の誘惑に日本人は抵抗力がない。
「すべてチャラにして、一からやり直そうよ」と言われると、どんなことでも、思わず「うん」と頷いてしまうのが日本人の骨がらみの癖なのである。
「維新」といわれると思わず武者震いし、「乾坤一擲」とか「大東亜新秩序」とかいうスローガンに動悸が速まり、「一億総懺悔」でも「一億総白痴化」でも「一億総中流」でもとにかく「一億総」がつくとわらわらと走り出し、「構造改革」でも「戦後レジームからの脱却」でも、とにかく「まるごと・一から・刷新」と聴くと一も二もなくきゃあきゃあはしゃぎ出すのが日本人である。
それはそれまでの自分のありようと弊履を捨つるがごとく捨てるのが「自分らしさの探求」であり、「自己実現」への捷径であると私たちが信じているからである。
繰り返し言うが、こんな考え方をするのは世界で日本人だけである。
私はそれを「属邦人性」と呼んでいるのである。
私はこの日本人の腰の軽い属邦人性のうちに日本人の可能性と危険はともに存すると考えている。
可塑的であるというのはよいことである。
だが、ことの功罪を吟味せずに「・・・はもう終わった」で歴史のゴミ箱になんでもかんでも捨ててしまうのは愚かなことである。
というわけで私がこの数年ご提案しているのは、「『・・・はもう終わった』が理非の判定に代わる時代はもう終わった」というものである。
私以外にそんな性根の悪いことを言う人間はいないはずなのであるが、最近のメディアの論調を見ていると「『・・・はもう古い』という言い方はもう古い」とか「何かにつけことの善し悪しを簡単に決めつけるのはよろしくない」というような措辞が散見されるのである。
こういう背理に直面する以外に私たちは自分には背理に耐える論理がないという事実を知ることができないのである。
知っていきなりどうなるというものでもないが、知らないよりはずっとましである。
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