プロジェクト佐分利信

2007-07-02 lundi

「プロジェクト佐分利信」というものを発足させた。
過日、興福寺へ向かう道筋で、釈老師と懇談のおりに、ふと「おせっかいなおじさんネットワーク」を駆使して、出会いの機会のすくない若い(若くなくても可)男女を「見合い」させる活動に余生を捧げてはどうか、という話になったのである。
「佐分利信」というのはご案内のとおり、小津安二郎の『秋日和』や『彼岸花』で結婚式にモーニングで登場して、「うたた感慨に堪えぬのであります」というような定型的祝辞を、「地獄から響くような声で」述べる、あのおじさんである。
北竜二と中村伸郎ともども「わるいおじさん」三人組を組織して、若い女の子とみると「おい、ノリちゃん、いくつになったんだ。もうお嫁に行かなくちゃいかんよ。お母さんもご心配だ」というようなセクハラ的お節介の限りを尽くしていたのである。
まことによけいなお世話である。
この手のお節介が「女性の自立」を妨げるということで、フェミニストの十字砲火を浴び、マッチメーカーなおじさんおばさんが地を払ってすでに久しい。
しかし、「よけいなお世話」とはいいながら、世の中それほど「出会いの機会」があるわけではない。
当今では「合コン」というのがほとんど唯一のマッチメイキングであるが、これはマッチメイク的には邪道のものである。
というのは、ほんらいマッチメイクというのは、「ほうっておくと、なかなか自分では配偶者をみつける機会に出会えない」タイプの、「ノン・アクティヴ」な方がたを救済する措置だからである。
ところが、「合コン」というのはエロス的活動方面においてきわめてアクティヴな方が「総取り」することが許されるという、まるで趣旨が違う制度なのである。
合コンは繰り返すほどに、「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」というポジティヴ・フィードバックがかかる。
このようなものを続けていると、遠からず社会は「頻繁にパートナーを替える少数の男女」と「生まれてから一度もステディがいたことのない多数の男女」に二極化してしまうであろう。
そのような不具合な制度であるにもかかわらず、現在これが唯一のマッチメイク制度である。
というのも、仮に結果的に性的階層格差が生じるにせよ、パートナーの選択は100%自己決定に委ねられるべきであり、パートナーを得られぬこともまた100%自己責任に属するという考え方が「政治的に正しい」という信憑がひろく若い世代にゆきわたってしまったからである。
生涯パートナーと出会えなくても、それが自己決定の結果であるなら、笑顔で制度の「ただしさ」を言祝がねばならぬというのも、よく考えると切ない話である。
しかし、性的階層格差の瀰漫を放置することは、私ども日本社会のフルメンバーとしては座視することができない。
親族の存在理由は何か?
レヴィ=ストロースは『構造人類学』でこう問うて、自ら答えている。
親族の再生産である。
なるほど、政治的理想の成就であるとか、個人的幸福の追求であるとか、経済的サクセスとか、親族再生産以外にも生きる上ではいろいろと「おたのしみ」はあろうが、何はともあれ親族が再生産されないと「社会」そのものが遠からず消失してしまう。
社会が消えると、理想も幸福もサクセスもありえない。
臣民の存在しない帝王とか、幸福をわかちあう相手のいないしあわせものとか、市場なしの金満家などというものは原理的にあえりないからである。
人間は共同体をわかちあう他者がいてはじめて人間になることができるのである。
というような人類学的知見をふまえて、釈老師との共催による「プロジェクト佐分利信」が発足したのである。
きくところでは、三砂ちづる先生も東京で「平成結婚塾」なる組織を立ち上げ、結婚のチャンスの前髪をつかめずにいる男女のためにマッチメイクを組織的に展開しようとされているとのことである。
「自立イデオロギー」にあおられて、スタンドアロンのライフスタイルを貫徹しているうちに、仕事でつまずいたり、病気をしたり、わずかな蹉跌がきっかけでいきなり心身の危機に落ち込む30代、40代の女性がふえている。
その人たちを救済するためにも「見合い」の習慣をふたたび定着させなければならない、というのが三砂先生のお考えである。
どういうわけか、こういうことになると私と三砂先生は意見が合うのである。
いずれ、意見を同じくする「世話焼きのおじさん・おばさん」たちのネットワークが全国展開することになるであろう。
とりあえず、プロジェクト佐分利信の年間成婚目標は2件。
釈先生、がんばりましょうね。

法事で父の故郷の山形県鶴岡市に来ている。
母と兄の飛行機を待ちながら、庄内空港の待合室でこんなことを書いて時間をつぶしているのである。
庄内は涼しいです。
--------