無音の言い訳

2007-06-17 dimanche

ブログ日記の更新が滞ってしまって申し訳ない。
あまりに忙しくて、日記を書いている暇さえなかったのである。
書いてない間にあったことを備忘のためメモだけ残しておく。
月曜・授業、居合の稽古、学部長会。
火曜・ゼミ二つ、『大学ランキング』の小林さんと小池さん取材に来る。ミシマ社の三島くんサイン本と『街場の教育論』進行状況チェックに来る。西北で学生たちをまじえて小宴会。
水曜・会議、夕方肥後橋で新潮社の足立さんと会って『逆立ち日本論』のための大量のポップ作成。橋本麻里さん合流して、『日本の身体』(仮題)の打ち合わせ。そういう本を作ることになっていたことを失念していた。橋本さんごめんね。そのあと横移動して朝日カルチャーセンターで名越先生とひさしぶりに対談。Extreme ironing という世にも不思議な競技の話を聴く。これについては稿を改めて分析を加えてみたい。
おもに映画の話。
最後に名越先生に「政治家になりなさい」というご託宣を授かる。
やっだぴょ〜んとお答えする。
その後、釈老師、足立さん、小林さん、かんちき、ウッキーたちもご一緒の打ち上げプチ宴会。
木曜・体調はなはだ不良。甲野先生、島崎先生との身体論鼎談企画が朝日新聞の大学パートナーズ・シンポジウムに採択されたので、朝日新聞社とその打ち合わせ。
授業のあと毎日新聞の取材。参院選の争点について。
どうしてそのようなことを私にお訊ねになるのか、その意図するところが不明であるが、とりあえず「日本はよい国であり、すばらしく成功しているのであるから、いかなる抜本的改革も『レジームからの脱却』も不要である」というメディアではどなたも言いそうもないことを言う。
参院不要論についても訊かれたので、参院は必要であるとお答えする。
衆院参院と両院あることの本質的な意味は「政治決定をできるだけ遅らせること」である。
それは上意下達で指導者の号令のもとに全国一斉にルールや制度が改まる社会よりも、統治者がいくらわめきたててもさっぱり改革が進まない社会の方が多くの場合、人間にとってはより住みやすい社会だからである。
生物の本質は変化であるが、変化しないこともまたそれと同じくらいに生物にとっては不可欠のことである。
メディアも政治家も「刻下の状況をリセットすることの緊急性」を言い立てるが、「リセットする」ことと「補正すること」は違う。
ゼロから作り直す方がコストがかからない事業と、ありものを手直しして使い伸ばす方がコストがかからない事業がある。
果たしてみなさんはその区別をきちん吟味されているのであろうか。
現に、メディアや政党はきわめて惰性の強い制度であるが、どちらもご自身の抜本的改革をお考えのようには見えない。
これは「現状のままでいたい。変化したくない」という彼らの欲望がどれほど強いものであるかを示している。夫子ご自身が変化を拒絶している以上、他人に向かって「ゼロからやり直せ」というようなさかしらなアドバイスをすることは少し自制された方がよろしいのではないか。
体調さらに悪化して、合気道の稽古をあきらめて帰宅。爆睡。
金曜。体調さらに不調。這うように大学に行き、ゼミ一つ。途中で抜け出してKC高等部1年の保護者対象の進路説明会で大学のご紹介。「女子大の存在意義は何かということを経済合理性の用語では語れないということ自体のうちに女子大の存在意義はある」というわけのわからないプレゼンをする。ゼミの続きをしてから会議が三つ。よろよろになって帰宅。爆睡。
そして土曜。体調どん底。

なにしろこの一月、休日というものがなかった。
一日フルに休めたのは、風邪をひいて寝込んでいた一日だけであるが、ふつうそういうものを「休日」とは呼ばない。
この一ヶ月の間に私は広島に行き、東京に三回行き、岩手に行き、能の会に出て、演武会に二回出て、学会に出て、大学に週5日出勤して、授業と会議をやり、週3回合気道と居合の稽古指導をする間に原稿を11本書いたのである。
これで倒れないのが不思議であるが、もちろん不思議なことは少しもなく、ちゃんと倒れてしまったのである。
私の場合は、まず体調不良は歯茎からの出血から始まる。続いて顔の色が赤白だんだら模様になり、まぶたが痙攣を始め、ついで痔の徴候が出て、最後に痛風の発作に至る。
今回は水曜夜に発症し、木曜金曜はなんとか歩行できたが、土曜には足が腫れ上がって歩くこともままならなくなった。
とはいえ週末は東京でラジオの収録が二つと『東京ファイティングキッズ』の打ち上げ宴会がある。
痛風も劇症となると完全に歩行不能なので、「行きたくても行けません」と胸を張って言えるが、必死になって歩けば歩けないことはないという程度がいちばん困る。
靴を履くのまず一苦労。
足が通常の1.2倍くらいに腫れているので、靴に足が入らない。
入らないだけではなく、足が(すごく)痛いのである。
痛風というのはご存じない方のためにご説明するが、血液中の尿酸濃度が上がることによって、尿酸が飽和して結晶化することによって生じる病である。
尿酸の結晶はハリネズミのような形状をしており(想像)、血管中をこれがごろごろ転がるのである。人間の血管の中でいちばん狭い足の親指の付け根の血管のところでこのハリネズミたちが渋滞を起こす。そして、ぶちぶちと神経を突き刺すのである。
原因は生化学的な変化にすぎないのであるが、症状はフィジカルな「針を刺すような痛み」となる。
だから、痛風の初期はしばしばこれを骨折と勘違いする。
骨折の場合はギプスをはめるとかテーピングをするとかすれば症状は緩和するが、痛風の場合は打つ手がない。
ただ、体内のケミカルな変化で結晶が消えるのを待つことしかできぬのである。
親指を骨折した状態で靴の中にむりやり足を押し込むという動作がどれほど苦痛に満ちたものであるか、みなさんも容易にご想像されるであろう。
とにかく、「あぎゃ〜」と叫びつつ、そのような行為をなしとげ、脂汗を流しつつ、東京へ向かう。
ラジオの仕事は平川くんのラジオデイズがやっているラジオ関西の対談番組。
これはお気楽トークで、ホストの平川君と、アシスタントの五十川藍子さん相手にぺらぺらおしゃべりをするだけ。
ちょっと前に思いついた、「村上春樹の文章からはどうして倍音が聞こえるのか」という話をする。
前にも書いたことだが、村上春樹は英語で読んでもフランス語で読んでも、日本語で読む場合と印象が変わらない。
私はまえに授業で実験したことがあるが、日本語からフランス語に訳された村上春樹作品をもう一度重訳して日本語に訳しなおしたところ、オリジナルと一言一句違わないセンテンスがいくつも出てきた。
つまり、村上春樹の文章は外国語を通過しても、変質しないのである。
どうしてそういうことが起こるのか?
「それは村上春樹がはじめから外国語に訳されることを予測して、英語っぽく書いているからである」という説明をする方もおられるであろうが、それは違うと思う。
かりに彼が「英語っぽい日本語」で書いたとしても、そんな書き方はそのテクストをインドネシア語やアラビア語に翻訳するときにはまったく有用性をもたない。
村上春樹の文学が、世界中の文法構造も語彙も修辞法もまったく異なる言語に翻訳されて、それぞれの言語で多く読者を得ているという事実を説明することのできる唯一の仮説は「すべての言語での翻訳者が村上春樹を読んで『これって、すごくうちの言葉に訳しやすい日本語で書かれているなあ』と思った」ということである。
だが、そんなことがありうるのか?
もし「訳しやすい」ということが統辞上の類縁性や語彙の共通性に基づくものなら、まったく構造の違う言語で同時多発的にそのようなことが起こるということはありえない。
しかし、現にそのようなことが起きた以上、それを説明する理屈を考案せねばならない。
私はこれを「倍音」という概念で説明できるのではないかと考えている。
「倍音」というのは、前にも書いたけれど、同一音源から複数の音が聞こえてくる場合に、人間の脳が作り出す「虚構」である。
自然界では同一音源から二つ以上の音が聞こえるということはふつうはない。
だから、脳は一つの音を「ここから聞こえる音」、もう一つの音を「こことは違うところから聞こえる音」というふうに「編集」してしまう。
実際には同一音源から聞こえているにもかかわらず、人間の脳はそれを「ここ」と「あそこ」からにむりやり分離してしまうのである。
でも、「あそこ」は実際には存在しない。
「存在しないところから到来する音」は聴き手の脳がこしらえあげたものである。
だから、倍音を聴き取る人はそこに「自分が聴きたいと思っている音」を聴き込んでしまう。
倍音のうちにイタリア人はグレゴリオ聖歌を聴き、日本人は読経の声を聴く。
倍音は「ここではない場所」から「私が聴きたいと望んでいた当のその音」として到来するのである。
おそらくそれと同じことがある種の文学作品においても起きていると私は思う。
村上春樹の文章には倍音を発生させる装置がビルトインされている。
それがどういうものかを私はまだうまく言い表すことができないけれど。
というような話をラジオでする。
深夜放送でいきなりこんな話を聴かされたリスナー諸君はさぞや驚くことであろう。
収録後、もうひとりのゲストの原賀真紀子さんと四人でお茶をしつつ、慨世の話。
丸の内に移動して、朝日新聞の大槻さん主宰の『東京ファイティングキッズ』文庫化記念宴会。
ゲストは「解説」を書いて下さった小池昌代さん。
私も平川君も小池さんの熱烈なファンなので、打ち上げ宴会というよりは、にきび面の高校生ふたりがきれいで頭のいい同級生の女の子を相手にして精一杯背伸びをして「文学っていうのはさ」とおしゃべりしているような絵柄となる。
こういう話をしていると、56歳になっても中身はほんとに16歳からぜんぜん進歩してないことがよくわかるのである。
そういえば、前にテレビに出ていたとき、小池さんの横にすわった鷲田清一先生もかなり「少年」化していた。
還暦近いおじさんたちを一瞬のうちに少年に戻してしまう小池さんの「少年還元力」はその詩魂と構造的に結びついているのであろう。すてきだ。
よろよろと学士会館に戻る。
足の腫れはいくぶんか引いたようである。
来週は人間に戻りたい。
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