こんなことを書きました

2007-06-12 mardi

『大航海』と『潮』と『熱風』と『中央公論』が同時に送られてきた。
白川静論、関川夏央さんとの対談、貧乏論、諏訪哲二さんとの対談である。
『大航海』と『熱風』は一般書店ではなかなかみつからない媒体であるから、読者サービスとしてここに掲載することにする。白川静論は25枚。ちょっと長いよ。では、どうぞ。

白川先生から学んだ二三のことがら
 白川静先生は、私がその名を呼ぶときに「先生」という敬称を略することのできない数少ない同時代人の一人である。私は白川先生の弟子ではないし、生前に講筵に連なってその謦咳に接する機会を得ることもなかった。けれども、私は書物を通じて、白川先生から世界と人間の成り立ちについて、本質的なことをいくつか教えて頂いた。以下に私が白川先生から学んだ二三のことがらについて私見を記し、以て先生から受けた学恩にわずかなりとも報いたいと思う。
私が白川先生に学んだ第一のものはその文体である。
 先生の文体は苛烈なほどに断定的である。例えば、孔子の出自について記した次の一節。

 「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語はすべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早くに孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。」(白川静、『孔子伝』、中公文庫、2003年、26頁)

 白川先生は司馬遷に向かって、孔子について彼の記すところは「すべて虚構」であり、「拙劣な小説に似ている」と言い切る。手に入る限りの史料を、雑説を含めて検証し尽くしたことに満腔の自負を持っている学者でなければ、このような文体を選ぶことはできない。「これ以上調べることはできない」という限界までたどりついた人間だけがかかる断定におのれの知的威信をかけることができる。私はその自負と、その自負を支える圧倒的な学殖にほとんど打ちのめされるのである。
 断定することはむずかしい。断定しなくてもよいのであれば、学者の仕事はずっと楽になる。「・・・という説もあり、・・・という説もある。その当否はしばらく措く」というような言い方が許されるなら、資料批判の重荷はずいぶん軽くなるだろう(現に私はそのようにして心理的負荷を軽減している)。しかし、白川先生はこれを退ける。「判断保留」は一見すると客観性を装ってはいるが、実はしばしば不勉強者の遁辞にすぎぬことを白川先生は見抜いているからである。「こちらの言い分も、あちらの言い分も、それぞれに掬すべき知見が含まれる」というようなことを、例えば私が書くときには、たいていの場合、私はろくに調べもしないでそう書いている。「そんなことの正否なんかどうだっていいじゃないか」と思っているからこそ、平然と判断保留して話を先に進められるのである。
 「断定する学者」に私は本能的な畏怖を感じるのはそのゆえである。その恐るべき研究の蓄積に対して以上に、その研究を動機づける、「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに例外的に重要な論件」こそが「私の問題」であるだと言い切れる自負と自尊に対して、私は畏怖を覚えるのである。
 白川先生が司馬遷の論の破綻をきびしく咎めたのは、孔子という人について、その正確な人物像を一点一画を忽せにせずに描き切らねばならないという責務を自らに課したからである。それは先生が孔子という人物のうちに自身の「理想」を見出したからである。そして、「孔子の偉大性」について、学術的で客観的な言語で記述することに先生がこだわったのは「人間が偉大であるとはどういうことか」という白川先生個人にとっての実存的な問いにそれがまっすぐ繋がっていたからである。孔子について先生はこう書いている。

 「孔子は偉大な人格であった。中国では、人の理想態を聖人という。聖とは、字の原義において、神の声を聞きうる人の意である。孔子を思想家というのは、必ずしも正しくない。孔子はソクラテスと同じように、何の著作も残さなかった。しかしともに、神の声を聞きうる人であった。その思想は、その言動を伝える弟子たちの文章によって知るほかはない。人の思想がその行動によってのみ示されるとき、その人は哲人とよぶのがふさわしいであろう。」(同書、12-13頁)

 白川先生が司馬遷の孔子世伝の杜撰を咎めたのは、司馬遷にとっては孔子が歴史上の「偉人」のうちの one of them に過ぎなかったのに対して、白川先生にとって孔子はかけがえのない先賢だったからである。そのことは最初の引用の最後の、叩きつけるような次の言葉から窺い知ることができる。

 「思想は富貴の身分から生まれるものではない。」

 この断定は発話者がその身体を賭して「債務保証」する以外に維持することのできぬものである。私は白川先生がどのような前半生を過ごされたのか、略歴によってしか知らない。けれども、それが「富貴」とほど遠いものであったことは知っている。さしあたり「思想は富貴の身分から生まれるものではない」という命題の真正性を担保するのは、一老学究の生身の肉体と、彼が固有名において生きた時間だけである。この命題はそれ自体が一般的に真であるのではなく、白川静が語った場合に限って真なのである。世の中にはそのような種類の命題が存在する。そのことを私は先生から教えて頂いた。それが第一の学恩である。
 私が蒙った第二の学恩もまた第一に劣らず実存的な知見である。私は白川先生から「祖述者」という立ち位置の重要性を教わった。
 白川先生は人間の知性がもっとも活性化するのはある理説の「創始者」ではなく、その「祖述者」の立ち位置を取るときであると考えていた。先生はそれを孔子から学んだのである。
孔子が治世の理想としたのは周公の徳治である。けれども、孔子もその同時代人ももちろんその治世を現認したわけではない。孔子の時代の魯の国において、周公の治績はすでに忘れ去られようとしていた。孔子はその絶えかけた伝統の継承者として名乗りを上げたのである。その消息について白川先生はこう書いている。

 「過去のあらゆる精神的遺産は、ここにおいて規範的なものにまで高められる。しかも孔子は、そのすべてを伝統の創始者としての周公に帰した、そして孔子自身は、みずからを『述べて作らざる』ものと規定する。孔子は、そのような伝統の価値体系である『文』の、祖述者たることに甘んじようとする。しかし実は、このように無主体的な主体の自覚のうちにこそ、創造の秘密があったのである。伝統は運動をもつものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである。」(同書、115―116頁)

 「述べて作らず、信じて古を好む」(述而篇)という構えのうちに、共同体の伝統の「創造的回帰」の秘密はある。「起源の栄光」なるものは、「黄金時代はもう失われてしまった」という欠落感を覚える人によって遡及的に創造されるのである。「周公の理想的治績」のおそらく半ばは孔子の「作り話」である。孔子のオリジナリティは「政治について私が説くことは、私のオリジナルではなく、先賢の祖述にすぎない」という一歩退いた立ち位置を選択した点に存する。
 孔子は「かつて理想の統治が行われていたのだが、それはもう失われ、現代の政治は見るかげもなく堕落してしまった」と嘆くことによって、人間には理想的な徳治をなしうる潜在能力がある(なぜなら人間はそれを失うことができたのだから)という「物語」を人々に信じさせた。
 何かが存在することを人に信じさせるもっとも効果的な方法は「それが存在する」と声高に主張することではない。「それはもう失われてしまった」とつぶやくことである。これは誰の創見でもない。「起源」を厳密な仕方で基礎づけようと試みた哲学者たちは多かれ少なかれ似たような語法にたどりつく。例えば、モーリス・ブランショはこう書いている。

 「神を見た者は死ぬ。ことばの中でことばに生命を与えたものは息絶える。ことばとはこの死の生命なのだ。それは死をもたらし、死のうちで保たれる生命なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去ったのだ。」(Maurice Blanchot, ‘La littérature et le droit à la mort’, in La Part du feu, Gallimard, 1949, p.316)

 ブランショは起源が「不在」であるという現事実を「何かがそこにあった。そして、今はもうない」という話形に回収することによって起源を基礎づけようとした。私たちが「何かが欠如している」と感じることができるのは、欠性的な仕方ではあれ、その「何か」をすでに知っているからである。
 例えば、愛において、私たちはそれに触れたいと切望する当の対象に自分がすでに結びつけられていると感じる。私たちが何かに「手が届かない」と感じるのは、「手が届かないもの」を持つという仕方ですでにそれに触れているからである。だから、もっとも深い愛は、その人を愛することはその人に出会うより以前に宿命的に定められていたという確信を伴う。
 エマニュエル・レヴィナスは、愛とは「私が私であるより以前の出来事」であると書いている。これは孔子が周公の治績を「私が私となるより以前の出来事」であり、それゆえに私はそれに宿命的に結びつけられていると論じたことと構造的には同一の事況を指しているだろう。
 「愛とは、存在者がそれを探求をしようと発意するより先にすでにそれに結びつけられているものを探求する運動である」(Emmanuel Lévinas, Totalité et Infini, Martinus Nijhof, 1961, p.232) とレヴィナスは書いた。
 孔子が「仁」について述べていることも、おそらくここからそれほどには遠くない。
 「子曰わく、仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯(すなわ)ち仁至る。」(述而篇)
 孔子は仁は「遠くない」ところにあると言う。にもかかわらず、仁を求める運動は「死して後已(や)む」(泰伯篇)まで終わることがない。これはどういうことだろう。
 私たちにわかるのは、仁者は「仁が現にここに存在しない」という当の事実に基づいて、仁がかつて存在し、今後いつの日か存在しうることを確信するという、順逆の狂った信憑形式で思考する人間だ、ということである。「我仁を欲すれば、斯ち仁至る」とは、空間的に遠くにあるものを呼び寄せるという能動的なふるまいを指しているのではない。そうではなくて、「仁を欲するもの」が出現することによってはじめて「仁」という概念そのものが事後的に出現するという事況そのものを指しているのである。私はそのように理解した。それは「神を愛する」ということを責務として感じることのできる人間の出現と同時に「神」という概念が出現する構造に通じている。
 その点で、儒家と仁の関係は、ユダヤ人と神の関係に重ね書きすることができると私は思う。ユダヤ人たちの中にはホロコーストの後、彼らの神が民を見捨てたことを恨み、信仰を棄てようとするものが相次いだ。彼らに向かってレヴィナスはこう言った。
 あなたがたは善行を行えば報償を与え、悪行を行えば懲罰を下す、そのような単純な神を信じていたのか。だとしたら、あなたがたは「幼児の神」を天空に戴いていたことになる。だが、「成人の神」はそのようなものではない。「成人の神」とは、人間が人間に対して行ったすべての不正は、いかなる天上的な介入も抜きで、人間の手で正さなければならないと考えるような人間の成熟をこそ求める神だからである。もし、神がその威徳にふさわしいものであるとすれば、神は人間に霊的成熟を求めるはずである。神の不在に耐え、人間が人間に対して犯した罪の償いを神に委ねることをしない成熟した人間を求めるはずである。
 レヴィナスはそのような論理によって、現に奇跡的な介入がなく、義人が受難したという当の事実に基づいて「成人の神」が存在することを証明しようとしたのである。

「唯一神へ至る道には神なき宿駅がある。真の一神論は無神論の正当なる要請に応える義務がある。成人の神はまさに幼児たちの空の空虚を経由して顕現するのである。
 その顔を隠す神とは、神学者の抽象でも、詩人の幻像でもないと私たちはそう考えている。それは義人がおのれの外部に一人の支援者も見出し得ない時、いかなる制度も彼を保護してくれない時、幼児的宗教感情を通じて神が現前するという慰めが禁じられている時、一人の人間がその良心において、すなわち受難を通じてしか勝利し得ないその時間のことである。」(Lévinas, Diffcile Liberté, Albin Michel, 1963, p.203)

 その親族の多くを強制収容所で失ったレヴィナスが記したこの悲痛な文章と、魯を逐われて放浪の歳月を送る孔子の言葉に共鳴するものを聴き取ることはそれほど不適切なことのように私には思われない。彼らはいずれも人間の世界が不条理で邪悪なものに満たされていることを経験的には熟知していた。けれども、人間たちの世界のうちになにごとか「善きもの」を生成させようと思ったら、人間以外の力を借りることはできない。
 「子、怪力乱神を語らず。」(述而篇)人間の犯した罪は人間が取り消す以外に取り消す手だてがなく、人間の作り出した穢れは人間が自分の手で祓うしかない。
そして、世界を住みなしうるものとするという人間のこの仕事を誰も「私」に代わって引き受けることができないという当の事実から、無神論に至るのではなく、超越的なものを「かつて一度も現在であったことのない起源」として導出する仕方において、孔子とレヴィナスはほとんど同じ理路をたどっているように私には思われるのである。
 預言者も仁者も述べて作らない。彼らは決して創造者・起源としておのれを立てることをしない。自らを起源から派生したもの、創造の瞬間に立ち会うことができなかったもの、すなわち遅れて世界に登場したものとして自己を措定する。そのようにして、祖述者はおのれに先んじて存在したとされる(かつて存在したことのない)起源を遡及的に基礎づけようとするのである。
 白川先生は「祖述者」たる孔子の祖述者というポジションを選択した。白川先生自身もまた「述べて作らず。信じて古を好む」人なのである。だから、先生が孔子の祖述者としての働きについて書いた次の言葉は(文中の「孔子」を「白川静」に、「周公」を「孔子」に置き換えると)そのまま先生自身の働きについての言葉として読むことができる。

 「孔子においては、作るという意識、創作者という意識はなかったのかも知れない。しかし創造という意識がはたらくとき、そこにはかえって真の創造がないという、逆説的な見方もありうる。(…) 伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、はじめて伝統となる。そしてそれは、個のはたらきによって人格化され、具体化され、『述べ』られる。述べられるものは、すでに創造なのである。しかし自らを創作者としなかった孔子は、すべてこれを周公に帰した。周公は孔子自身によって作られた、その理想像である。」(白川、前掲書、70頁)

 学恩の第三は、世界は呪詛と祝福に満たされているという言語観である。
 人間が言語によって世界を分節する仕方は共同体ごとに異なり、世界は共同主観的な「物語」として構造化されている。そのことは構造主義以後、私たちに共有される基礎的知見である。言語による世界分節は恣意的である、と私たちは教わってきた。それはいわば部分的に遮眼された眼鏡で世界を見ているような経験だろうと私は理解していた。世界は「向こう側」にあり、私たちは「こちら側」にいる。その間には(『D坂の殺人事件』で明智小五郎を困惑させた引き戸のように)見るものの立ち位置が変わるごとに可視領域が変化する「グリッド」が介在していて、私たちが「同じ世界」を見ることを妨げている。
 しかし、白川先生の考える言語はそのような静態的な「格子組織」とは似ても似つかぬほどに荒々しく、また生々しいものである。言語は固有の生命をもった生き物のように、世界をわしづかみにして、塑造し、人間たちがその中で生き死にする、人間にとってだけ意味のある場に変形する。
 白川先生の漢字学は、古代中国において、地に瀰漫していた「邪悪なもの」を呪鎮することが人間たちのおそらく最初の知的営為であったという仮説の上に構築されている。
古代の人間は大量の時間とエネルギーを「邪気」を祓うために費消していた。白川先生の「サイ説」はそこから始まる。
 「サイ」というのはこのフォントでは再現できないけれど、英語のDの弧の部分を下向きにしたかたちである。この文字を後漢の『説文解字』以来学者たちは「口」と解した。白川先生はこれを退け、これが「祝詞を入れる器」、もっとも根源的な呪具の象形であるという新解釈を立てた。

 「この基本形であるサイの従来の解釈が誤りであるとすれば、その系列に属する数十の基本字と、その関連字とは、すべて解釈を改めなくてはならない。誤解のもとはサイを口の単なる象形と解し、文字映像におけるその象徴的意味を把握しえなかった点にある。」(白川静、『漢字百話』、中公文庫、2002年、41頁)

 「告」は「木の枝にかけられたサイ」である。ゆえに、「告げるとは神に訴え告げることである」。「サイ」を細長い木につけてささげると「史」になる。聖所に赴くときは、大きな木に「サイ」を著けて吹き流しを飾り、奉じて出行する。「呪」はもともと「サイ」と「兄」の合字である。兄は祝祷の器であるサイを奉じて祖霊に祈る人をいう。サイを二つ並べると「咒(しゅ)」となり、これは烈しい祈りを意味する。祈りを通じて忘我の境位に達することを「兌(えつ)」という。「悦」と「脱」の両義を持つ。兄の上部に八形を加えたものであり、これは「神気が髣髴としてあらわれることを示している」(白川静、「中国古代の文化」、『白川静著作集七』、平凡社、2001年、135頁)

 古代中国における戦いはなによりもまず呪術による攻防として行われた。

 「呪術の目的は攻撃と防禦にある。その最初の方法は呪的な言語によるものであったが、それが表記形式に定着したものが文字であった。開かれた祈りは告であり、隠された祈りは書である。攻撃と防御の方法は、その呪能を託されている祝告の器であるサイに対して、加えられるのである。」(白川、『漢字百話』、44-45頁)

 それゆえサイにはさまざまな武具が防禦のために動員された。
 サイに鉞を加えると「吉」(呪能をここにとじこめる)になる。盾を加えると「古」(固く永続する)になる。戈を加えると「咸」(完全に終わる)となる。「みなその祝告の呪能を保全するための防禦的方法である。」(同書、45頁)
一方、敵対する陣営の呪能的防衛戦を破るためにはサイを汚す文字が用いられる。
「舎(すてる)」と「害(そこなう)」はいずれも「長い刃をもって器を突き通す形であり、そのような方法で呪能は失われると考えられた。」サイに水をかけることも呪能を奪う方法であった。だから、「沓」は「サイに水をかけ、加えて踏みつけること」(同書、45-46頁)である。
 古代の呪術的な戦いは言葉によって展開したというのが白川先生の説である
 「文字が作られた契機のうち、もっとも重要なことは、ことばのもつ呪的な機能を、そこに定着し、永久化することであった」(白川、「中国古代の民俗」、『白川静著作集七』、304頁)とするこの文字論は「コミュニケーションの道具としての言葉」という私たちになじみ深い功利的言語観と隔たるところ遠い。私はそのいずれが言語観として適切であるのか、その当否を論じることのできる立場にはいない。けれども、だが、言葉によって人間が身体的に破壊され、また賦活されるということは経験的に知っている。
 言語は人間的な事象である。あるいは人間は言語的な事象であると言い換えてもよい。「はじめに言葉があった」というのは人間と人間的世界が言葉と同時に誕生したということである。
 呪いは人間的な事象である。自然のうちには呪いなど存在しない。人間だけが人間を呪い、人間だけが呪いを祓うことができる。それは人間世界内部でのみ通用する「通貨」である。祝福も同じである。人間だけが言葉によって破壊され、人間だけが言葉によって再生される。
梅原猛との対談の中で先生は古代の歌謡のもつ祝福の力についてこう述べている。

 「『賦』というのは、例えば山の美しい姿を見て、そして山の茂み、あそこの谷の具合、あそこの森の深さ、とかいう風にね、色々山の美しい姿を描写的に、数え上げるようにして歌ってゆく。これが『賦』なんです。(…) 歌うことによってその対象の持っておる内的な生命力というものを、自分と共通のものにする、自分の中に取り入れる。」(白川静、梅原猛 『呪の思想 神と人間との間』、平凡社、2002年、205頁)

 おそらく古代の人々は中国でも、あるいは万葉古謡の日本列島でも、身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝ったのであろう。そのようにして人々は生命力を賦活し、減殺するために死力を尽くした。そのときに人々が発していた言葉はほとんど物質的な持ち重りと手触りを持っていたはずである。それは観想的主体の口にする「われ思う」という言葉の透過性、無重力性、非物質性、中立性と、考え得る限りもっとも対蹠的なところにある言葉である。
 言葉がそれだけの重みを持った時代がかつてあった。それは白川先生のロジックを反転させて言えば、人間がそれだけの重みを持った時代があったということでもある。人間の発する烈しい感情や思いや祈念が世界を具体的に変形させることのできた時代があったということである。そして、そのような時代こそは白川先生にとって遡及的に構築すべき、私たちの規矩となるべき「規範的起源」だったのである。
 私が白川先生から学んだのは以上のようなことである。
(『大航海』63号、新書館)

はい、おつかれさまでした。
次はスタジオジブリの『熱風』に寄稿した貧乏論。

貧乏で何か問題でも?
 最初に用語の定義を済ませておこう。
 貧困は経済問題であるが、貧乏は心理問題である。「意味の問題」と言うこともできるし、「関係の問題」と言うこともできる。とりあえず数字で扱える問題とは次元が違う。
 日本ではおおざっぱに世帯の年間所得が200万円以下だと「貧困」に類別される。だが、年収2万ドル弱というのは、世界的に言うと、かなり「リッチ」な水準である。日給240円のニカラグアの小作農は年収87600円である。「絶望的な貧困」と申し上げてよろしいであろう。この場合は、どのような個人的努力を積み重ねても、どれほど才能があっても、小作農の家に生まれた子供はその境涯から脱出することがほとんど不可能だからである。
 一世帯年収200万円はその意味では「絶望的な貧困」とは言えないであろう。その世帯の支出費目に教育費が含まれており、収入が主に企業内労働によって得られているなら、それは世帯構成員たちがこの先、個人的努力によって知的資質や芸術的才能を開発したり、業務上の能力を評価されて昇給昇進するチャンスが残されているということを意味するからである。これは小作農的な「出口のない貧困」とは別種のものである。
 だから、日本で社会問題になっているのは貧困ではなく、貧乏であると考えた方がよい。
屋根のある家に住み、定職を持ち、教育機会や授産機会が提供されており、その上で相対的に金が少ないという状態は「貧困」とは言われない。あちらにはベンツに乗っている人がいるけれど、うちは軽四である。あちらにはGWにハワイに行く人がいるのに、うちは豊島園である。あちらにはシャトー・マルゴーを飲んでいる人がいるのに、うちは酎ハイであるという仕方で、所有物のうち「とりあえず同一カテゴリーに入るモノ」を比較したとき、相対劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」と言うのである。
 近代以前には、この種の貧乏は存在しなかった。農民が大司教の衣装と自分の衣服を比較して恥じ入るとか、猟師が王侯貴族のような城館に住んでいないことを苦しむというようなことは起こらなかった。生物学の用語を用いていえば、「エコロジカル・ニッチ」(生態学的地位)が違っていたからである。鼠が象を見ても「あんなに大きくなりたい」とは思わないのと同様である。
 貧乏は「人間は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」と宣言した『人権宣言』によってはじめて公式登録された。生まれながらに平等であるはずであるにもかかわらず、権力や財貨や情報や文化資本の所有において現に個人差がある。それを「苦しみ」として感じるのが「貧乏」である。だから、貧乏は近代市民社会とともに誕生したのである。
貧乏とは、私が端的に何かを所有していないという事実によってではなく、他人が所有しているもの(それは私にも等しく所有する権利があるはずのものである)を私が所有していないという比較を迂回してはじめて感知される欠如である。
 第二次世界大戦が終わったあとの敗戦後の日本はたいへんに貧しかったけれども、人々の顔は総じて明るかった。それは日本人全員が同程度に貧しかったからである。「共和的な貧しさ」(関川夏央)のうちに人々は安らいでいた。私は1950年の生まれであるけれど、50年代までの日本社会の穏やかな空気をまだ覚えている。
 そのあと日本は「貧困」から脱して豊かになったけれど、「貧乏人」はむしろ増えた。豊かさに差が生じたからである。
 1950年に六畳一間の貸間に住んでいる一家はまだ少なくなかった。だから、住人たちもそのことを深く恥じてはいなかった。それは偶有的な不運によって説明可能だったからである。だが、1960年には、そのような家に住むのは例外的な少数になり、親たちは自分の子どもがそのような家に足を向けることを禁じた。貧しいことは能力や意欲の欠如とみなされるようになったからである。そのようにして、貧乏は「共和的」であることを止めた。
 渡辺和博が『金魂巻』で「○金」「○ビ」という二分法で、「ビンボくさい」というのはどういうふるまいを指すのかを論じてベストセラーになったのはバブル直前の1984年のことである。このとき、もはや「貧困」は社会問題ではなくなっていた。問題なのは「貧乏」であり、人が「貧乏」であるかそうでないのかを識別することには、この時点ですでにかなり複雑な手続きを要するようになっていた。
 この本の中で渡辺は「イラストレーター」や「コピーライター」や「ミュージシャン」など先端的でお洒落(とみなされている)職業に就いている人々の「○金」「○ビ」識別法をアイロニカルに教示した。渡辺の業績は後期資本主義社会においては、貧乏は記号的なものとなるということを鮮やかに示した点に存する。
 年収の多寡はもうここでは主要な識別指標ではなくなっている。「○ビ」の特質とされたのは、「他人の所有物を羨む」というメンタリティそれ自体だったからである。クリエイティヴでイノベーティヴな「○金」の人々は自分の規範に従い、自分の欲望に忠実である。一方、模倣的で追従的な「○ビ」の人々は他人の規範を模倣し、他人の欲望に感染する。例えば、『金根巻』を読んで「○金」と「○ビ」の識別法を学習しようとする態度それ自体が「○ビ」であることの指標であるように「○ビ」は構造化されていた(「金持ち」の定義が「金のことを考えずに済む人」であるように、「○金」というのは、自分が「○金」であるということに特段の意味があるということに気づいていない人のことだからである)。鋭い視点だったと思う。現在メディアで論じられている「貧乏」問題分析はこのときの渡辺和博の批評性に遠く及ばない。
 「もはや戦後ではない」という宣言とともに日本が中進国からテイクオフしたあとの日本社会で、貧困はもはや深刻な社会問題とではなくなった。もちろん、貧困な人々は依然として存在したし、今も存在するが、貧困問題は平たく言えば「税金をどう使うか」という行政上のタスクにすぎない。クレバーでフェアな官僚さえいれば十分にマネージ可能な問題である(もし貧困問題がいまだ十分にマネージされていないとすれば、それは「クレバーでフェアな官僚が存在しない」ということを意味しており、私たちが論じているのとは別件の内政問題である)。
 貧困はとりあえず前景から退いたが、貧乏は日を追って重大な社会問題となっている。それは貧乏が記号的なものだからである。
 貧乏はおのれの相対的劣位を感知して、自分は「貧乏だ」と規定する自己意識が生み出す。だから、政府がどれほど税金を投じても「貧乏人」を富裕にすることはできない。なぜなら、彼らはどれほど富裕になっても、自分の財布から税金を払って「貧乏人を富裕にしてやった」納税者たちに対する相対的劣位に苦しむことを止めることができないからである。
 貧乏は金の不足が生み出すのではない。貧乏は「貧乏コンシャスネス」が生み出すのである。誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。そして、たいへん困ったことに、資本主義市場経済とは、できるだけ多くの人が「私は貧乏だ」と思うことで繁昌するように構造化されたシステムなのである。
 当然ながら、どれほどものを買っても、「他人が有しているもの(それゆえ私にも所有権があると見なされているもの)」を買い尽くすことはできない。市場は消費者が「私は貧乏だ」と思えば思うほど栄える。外形的にはきわめて富裕でありながら、なお自分を貧乏だと思い込んでいる人間こそ市場にとって理想的な消費者である。だから、企業もメディアも、消費者に向かっては「あなたは当然所有してしかるべきものをまだ持っていない」という文型で(つまり、「あなたは貧乏人だ」と耳元でがなり立て続けることによって)欲望を喚起することを決して止めないのである。ナイーブな人々はそのアナウンスをそのままに信じて、おのれの財政状態にかかわらず、「私は貧乏だ」と考えて苦しむことを止めない。そのようにして資本主義は今日まで繁昌してき。
 「私は貧乏だと思って苦しむこと」は(定義上からしても)人間をあまり幸福にはしない。できれば、「これだけ所有していれば、もう十分豊かであるので、苦しむのを止めようと考える」方が精神衛生上はよろしいかと思う。だが、「私はすでに十分に豊かである」と考える人はたいへん少ない。もちろん、それには理由があって、そんな人ばかりになったら、消費は一気に冷え込んでしまうからである。もし人々が方丈の草庵を結び、庭に生えたトマトと胡瓜を囓り、琴を弾じ、詩を吟じ、友と数合の酒を酌み交わして清談することに深い喜びを見出すようになれば、日本経済はたちまち火の消えたようにしぼみ、遠からず日本は中進国レベルに格下げされてしまうであろう。
 他者の欲望を模倣するのではなく、自分自身の中から浮かび上がってくる、「自前の欲望」の声に耳を傾けることのできる人は、それだけですでに豊かである。なぜなら、他者の欲望には想像の中でしか出会えないが、自前の欲望は具体的で、それゆえ有限だからだ。自分はいったいどのようなものを食べたいのか、どのような声で話しかけられたいのか、どのような肌触りの服を身にまといたいのか。そのような具体的な問いを一つ一つ立てることのできる人は求めるものの「欠如」を嘆くことはあっても、「貧乏」に苦しむことはない。
 日本社会はそのような能力の開発のためにほとんどリソースを投じてこなかった。そのようなものにリソースを投じたら経済成長が鈍化することがわかりきっていることに行政が真剣にかかわるはずがない。
 その選択が政策的に間違っていたのかどうか、私には判断ができない。たぶん、そうするしかなかったのだろう。
 貧乏コンシャスネスは「万人が平等」であるという市民社会の原理の「コスト」であり、市場経済の駆動力である。それゆえ、これから先も日本人はますます貧乏になり、資本主義はますます繁昌するであろうと私は思う。
 まあ、それも仕方がないか、というのが私の考えである。私たちの社会を住み易くするための原理として、とりあえず近代市民社会と市場経済以外の現実的選択肢を思いつけない以上、貧乏くらい我慢するしかあるまいと私は思っている。
 現に、貧乏なんだし。(『熱風』6月号、スタジオジブリ刊、非売品)
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