とっても大変な三日間

2007-06-04 lundi

金曜日は甲野善紀先生の講習会講演会。
本学特別客員教授としての最初のイベントであり、本学教職員への「おひろめ」の意味も含めて告知していたのであるが、学生、教職員の参加は少なく、ちょっと残念である。
しかし、甲野先生はそんなことをすこしも気にしないで、講習会から懇親会まで楽しそうに私たちのお相手をしてくれた。
7月29日にはオープンキャンパスで島崎徹先生と私との鼎談が予定されている。これは絶対面白いはずだから、みなさん見に来てくださいね(午後1時より本学講堂にて。学外者も参加自由です)。
今回の講習会は卓球元インカレ王者ミキハウスの渡辺裕子さんと、大阪府立高校の先生で合気道家の溝脇元志先生が初登場。
渡辺さんは平野早矢香さんと仙台育英高校で美少女ペアを組んでいた。すぱっと吹っ切れた感じが似ている。
卓球のような運動の場合は、潜在意識で動かないとボールスピードに間に合わない。山田コーチが甲野先生のところに弟子たちを連れてくるのはたぶん「潜在意識で動く身体の速度」を実見させるためなのであろう。
溝脇先生は教育者でありかつ合気道家である。当然、懇親会では公立高校における教育と武道のことが熱い話題になる。
現場の先生たちと話す機会がこのところ多い。
私が会う先生たちだけが特別なのでなければ、現場の先生の気質は昔と変わっていない。どなたも理想主義的で、血が熱い。
諏訪先生が「時代が変わっても教師は変わりません」と語っておられたが、私も同感である。
教育改革がこのような熱意ある先生たちを「支援する」というかたちをとらず、むしろその熱意に水をかけ、ペーパーワークで憔悴させるような政策だけを選択しているのはどうしてなのか。
おそらく、教育者のもつこの「制度的惰性」が行政は気に入らないのであろう。
上が「右」と言ったら、一斉に「右」を向くような上意下達の「すっきりした」教育システムを作りたい人間からすれば、時代を超えて受け継がれる「教員的エートス」のようなものは邪魔でしかない。
無意識にか意識的にか知らないけれど、そのような教員固有の「型」のようなものを壊したいと政治家や教育官僚は望んでいるのだろう。
しかし、それを一度壊してしまったら、もう学校というシステムは二度と機能しなくなるということが彼らにはわかっているのであろうか。
教育は(ほかのすべての仕事がそうであるように)本質的にオーバーアチーブである。
その成果が子どもたちのリアクションとして直接返ってくるせいで、そのつど動機づけが強化されるから、オーバーアチーブ度がきわだって高い職種なのである。
そのオーバーアチーブメントによって教育は支えられてきたのである。
もし、教師が「労働契約に記載してあるだけの仕事しかしない」ようになったら、教育は終わる。
ならば、教育改革というのなら、どのようにして教員の動機づけを高めることができるかを論じるべきだろう。
それなら答えは簡単だ。
教師ひとりひとりにできるだけ自由裁量権を与えることである。現場における自由闊達な創意工夫に制度的な縛りをかけないことである。
メディアで教育改革について発言しているのはこの理路がどうしても理解できない人間たちばかりである。
一度現場におりて来て教師をしてみれば、そんなことはすぐにわかるはずなのに。

土曜日は朝から下川先生のところで最後の特訓。拍子を一箇所間違えたので、やり直し。汗だくになる。
そのまま走って合気道の稽古へ。
大変な人数が来ていて、80畳の道場が狭く感じられる。湿度がすごい。
へとへとになって家に戻り、着物の手入れ。
モーツァルトを聴きながら長襦袢に半襟をちくちく縫いつけてゆくと、ほっこり幸せな気分になる。
さらに楽のおさらいを5回。
何度やっても、一箇所間違える。
本番の舞台で間違えると、その瞬間に「頭がまっしろ」になって、自分がどこで何をしているのかわからなくなると下川先生に何度も脅かされているので、一箇所間違えるのは致命的である。
間違えなくなるまで繰り返す。
朝も早起きして、おさらいを2回。
湊川神社で下川正謡会。
素謡『花筐』のワキと舞囃子『鶴亀』。
舞台に出ると、気分が落ち着いてきて、ありがたいことにノーミスで舞い終わる。
人前でしゃべる仕事はいくらもするし、人前で合気道の演武することもしばしばあるが、それで緊張するということはない。
緊張するのは能の舞台だけである。
わずか数十人の観客(その大半は身内)の前であるにもかかわらず緊張するのは、これが私の「オリジナル」作品ではなく、数百年にわたって継承されてきた「型」の再演だからであろう。
たくさんの方が来てくださり、楽屋見舞いも持ちきれないほど頂いた。この場を借りてお礼を申し上げます。
打ち上げのビールを飲んでようやくほっとする。
私が年に一度だけ柄になく緊張し、年に一度だけ深い解放感を味わうことができるのがこの日なのである。
こういう「めりはり」が人間には必要なのであろう。
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