国語教育について

2007-06-06 mercredi

大学院のゼミでは国語教育について論じる。
国語力の低下が子どもたちの学力の基盤そのものを損なっていることについては、すでに何度か言及した。
何が原因なのかについては諸説があるが、「言語のとらえかた」そのものに致命的な誤りがあったのではないかというラディカルな吟味も必要だろうと私は思う。
「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。
だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。
構造主義言語学以後(つまり100年前から)、理論的には言語とはそのようなものではないことが知られている。
先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。
とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。
私が何かを書くとき(例えばいましているように)、書き始められたセンテンスは前後の文脈や統辞上の制約や私の「書き癖」のせいで自動的に一文をなす。
そうやって自分が書いた文を私は読者になって読み返す。
読んで「なるほど」と納得することもあるし、「何か違う」と思うときもある。
たいていは「何かが違う」と思う。あるいは「何かが足りない」とか「何かが過剰である」と思う。
私はその印象にしたがって文を補綴し、あるいは削除し、あるいは加筆する。
そうやってあれこれいじりまわしているうちに「読んでそれほど違和感のない」文章が出来上がる。
この文章を「それほど違和感がない」と感じているもの、それが発話主体である。
文章を書き終えたあとにはじめてその文章を書いた人間の言語運用の「好み」がすこしだけわかる。
エクリチュールというのはそのように構造化されている。
モーリス・ブランショはこう書いている。

「作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。作品より以前に、作家は自分が何ものであるかを知らないばかりか、何ものでもない。作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。」(Maurice Blanchot, ‘La littérature et le droit à la mort’ in La Part du Feu, Gallimard,1949, p.296)

「いいたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める。
極端なことをいえば、「私」は「私が発した言葉」の事後的効果として存在し始めるのである。
その点で私はブランショに同意する。
理論的に整合的であるばかりか、実感としてその通りだと思うからである。
しかし、実際には国語教育はこれを逆転させた了解から成立している。
まず「いいたいこと」があり、それが「言葉」という不完全な表現手段を経由して読者や聴き手に到達する。
そういう言語観が採用されている。
その「不完全な媒介者」を遡及して、首尾良く「いいたいこと」に到達すれば「読解の成功」であるというふうにみなさん考えている。
だから、そういうしかたで「長文読解」問題は構成されている。
「作者は何がいいたいのか?」というのはもっとも頻繁に提示される問いのかたちだが、私はこの問いにどんな意味があるのかいまだによくわからない。
私自身の書いたものは現代文の入試問題に多く採用されている。
問題用紙が送られてくるので、たまにそれを読む。
そして、「作者は何がいいたいのか?」という問いの前でそのつど立ちつくす。
いくつかの選択肢があり、そのほとんどは誤答なのであるが、にもかかわらず私は遅疑なく選択することができない。
「私はいったい何が言いたかったのか?」
改めて考えると、私にもよくわからないからである。
もうずいぶん前に書いたものであり、私がけっこう気合いを入れた書いた文章である以上、そのときには「どうしてもこれだけは言っておかねば」というようなメッセージが生き生きとして私の内部に存在したのかもしれない。
しかし、それはあらかた消えて、今の私の中には存在しない。
でも文章は残っている。
それはまぎれもなく私の文章である。
私の好きな音韻と私の好きな字体の文字が私の好きなリズムで書かれている。
書いたことを覚えていないし、何を言いたくて書いたのかもわからないにもかかわらず、「これは私の文章だ」ということは100%の確信をもって言うことができる。
でも、これはちょっとおかしくはないだろうか?
作者自身が「自分がいいたいこと」が何だかは確信がないのに、「これは自分の文章だ」ということには確信がある。
例えば、私が二十歳のころに書いた政治的文章がある。
私はその主張にほとんど共感できない。
「若造が何を言ってやがる」と思う。
けれど、それがまぎれもなく私の書いた文章であることはわかる。
こういう文章は私しか書かないからだ。
コンテンツはもう私のものではないが、ヴィークルは今も私のものである。
ということは、「言葉」が私にとって生理過程に近い、一次的なものであり、「いいたいこと」の方が副次的、派生的なものだということになる。
「言葉」の物質性はまぎれもなく私のものであるが、メッセージは極端な話どこかで聴いた誰かの話の受け売りなのである。
小学校五年生のときにはじめてエルヴィスを聴いたときに私は思わず小さく震えたが、英語の歌詞の意味はぜんぜんわからなかった。
「湯煙夏原ハウンドドッグ」でも来るべきものはちゃんと「来る」のである。
そのことに「驚く」べきではないのか。
だが、国語教育はなぜか「意味」に拘泥する。作品を「作者の意図」に従属させて怪しまない。
だが、『ハウンドドッグ』の歌詞カードを読んで、「エルヴィスはこの曲を通じて何が言いたいのでしょうか?」と訊くのがまるで無意味な問いであることは誰にでもわかるであろう。
音楽の命は音の物質性のうちに棲まっている。
言語も同じである。
言語の命は言葉の物質性のうちに棲まっている。
強い言葉があり、響きのよい言葉があり、身体にしみこむ言葉があり、脈拍が早くなる言葉があり、頬が紅潮する言葉があり、癒しをもたらす言葉がある。
現実に読み手聴き手の身体を動かしてしまうというのが「言葉の力」である。
言葉には現実を変成する力がある。
そのような言葉に実際に触れて、実際に身体的に震撼される経験を味わう以外に言語の運用に長じる王道はない。
言葉によって足元から揺り動かされる経験に比べれば、読みの適否なんかどうだってよいではないか。
子どものときからそのような「力のある言葉」を浴び続けることだけが重要なのである。
その経験を通じて、はじめて「諧調」とは何か、「響き」とは何か、「論理性」とは何か、「抒情」とは何かということが実感としてわかるようになる。
ある文章が論理的であるか非論理的であるかを判定するのは推論の働きではない。
論理的な文章は「気持ちがよい」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」。
それを判定するのはフィジカルな感受性である。それは幼いころから美しい音楽を浴びるように聴いてきた子どもが演奏の半音のずれを「不快な音」として聴き咎めてしまうのと同じである。
論理性を身につけるためには、論理の運びが美しい文章を浴びるように読む以外に手だてはない。
「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する。
国語教育とは畢竟それだけのことである。
江戸期の名書家沢田東江の「東江書話」には次のような言葉がある。

「学才なき人の書は見るにたらず。いはんや代をさりてむかしを慕ひ、国を隔ててその体を学ぶにおいては、学才なき人は見識もひらけず、その書おのづから俗態をなすもことわりなり。もし詩文をよくせずとも、実に書を好むとならば、その典刑とする法書を見、論譜を読て、古人の心を用ゐたるおもむきをもたづぬべき事ぞかし。」

「古人の心」に現代人は逆立ちしても手が届かない。
しかし、源泉を探って遠く先哲の室に参ずるための物質的手がかりはさしあたりその書しかない。
そして、そこから遡及して古人の心を訪ねてみても、たどりつく先は一人一人ばらばらである。
別にそれでいいじゃないかと私は思う。
そうやって人間はいろいろなことをてんで勝手に学んでゆくことになるのである。
リアルなのは言葉だけである。
言葉の向こうには何もない。
けれども言葉は「言葉の向こう」があるという仮象をつくりだすことができる。
「言葉以上のものがある」と信じさせることが言葉の力の効果なのである。
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