私的昭和人論

2007-05-19 samedi

授業と会議のあいまに、ジブリに「貧乏で何か問題でも?」を書き、共同通信に「ネットカフェ難民」を書き、文藝春秋の「私的昭和人論」を書く。
ほとんど「ライティング・マシン」である。
「私的昭和人論」は字数がたっぷりいただけたので、「昭和人のエートス」について書く。
よい機会だったので、「昭和人」とはどういう人のことか、考えてみた。

「明治人」という人物類型がある。
でも、「大正人」という言い方はなされない。私は聞いたことがない。
「昭和人」という言い方はどうであろう。
たぶん成立するであろう。成立しなければ、「昭和人のエートス」というタイトルで原稿依頼があるはずがない。
どうして、明治と昭和だけに特殊な人物類型が出現したのか。
おそらくこの二つの時代が「断絶」を含んでいるからである。
私はそう思う。
「明治人」「明治生まれの人間」を意味しない。そうではなくて、「明治的」な人間のことである。
「明治的」というのはどういうことかというと、「明治維新」というトラウマ的経験に苦しんだという原事実がある、ということである。
西郷隆盛の生年は文政10年(1827)、大久保利通は天保元年(1830)、坂本竜馬は天保6年(1835)、高杉晋作は天保10年(1839)。
彼らは明治の日本の基礎を築いたが、「明治人」ではない(坂本と高杉は維新前に死んでいるし)。
夏目漱石や森鴎外が代表的明治人である。
ただし、漱石は慶應三年(1867)生まれ、森鴎外は文久二年(1862)生まれである。
「明治人」のエートスをかたちづくったのは間違いなく明治維新である。旧時代の制度文物を棄て、西欧をモデルとした近代国家を立ち上げるという事業は、その時代の人々にとって、ほとんど自分の半身を切り裂くような痛みを伴ったはずである。
日本人である自己の半身を否定するような「近代化」の痛みを受け止め、半身から血を滴らせながらも生き延びた、その葛藤のうちに明治人の深みと奥行きは存する。
私はそう思う。
同じことが「昭和人」についても起きている。
1945年8月15日の敗戦はひとつの「断絶」である。
けれども、これを「断絶」と感じない人もいる。
翼賛政治家であり、戦後も政治家であったような人々には何の「断絶」もない。
あるのは「変節」と「転向」だけであり、人間の本性はすこしも変わっていない。
あるいは丸山真男のように、戦前戦中において、日本社会の退嬰性と後進性を見抜いていた人間にとって、敗戦はことほぐべき「陋習からの解放」ではあっても、それを苦しむような「断絶」ではない。
敗戦を「断絶」と感じる人は実は意外に少ない。
それは私の見るところ、およそ1910年から35年にかけて生まれた人々である。
つまり、敗戦のときに10歳から35歳の間であった人々である。
彼らは「断絶前」に自分の半身を取り残している。
兵士であった半身、軍国少年であった半身、「八紘一宇」を無垢に信じた半身を残している。
これを切り捨てては、人間として立ちゆかない。
けれども、この半身を受け容れる「受け皿」が戦後社会にはない。
どうしましょう・・・
と途方に暮れた人々のことを私は「昭和人」と呼ぶことにした。
そのような人々への私からのささやかなオマージュの文章である。
この文を草するために、ひさしぶりに(おい、35年ぶりだぜ)丸山真男と吉本隆明を読み返した。
「超国家主義の論理と心理」と「転向論」である。
私の定義では丸山真男は「非昭和人」であり、吉本隆明は「昭和人」になるはずである。
その傍証のために、引用をしようと思って取り出したのである。
一読して、「じ〜ん」としてしまった。
「転向論」にはほとんど涙が出そうになった。
ああ、そうだった。高校二年のときにオレはこれを読んで、ものの考え方の基本を学んだのだった。
吉本は戦前の共産党指導者で獄中転向した佐野学と鍋山貞親について、こう書いている。
佐野たちは「わが後進インテリゲンチャ(例えば外国文学者)とおなじ水準で、西欧の政治思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリにすぎなかった」。
転向とは「この田舎インテリが、ギリギリのところまで封建制から追いつめられ、孤立したとき、侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれたということに外ならなかったのではないか。」
この時期の転向者たちは、獄中で仏教書や日本の国体思想についての書物を読んで、その深遠さに一驚して、一夜にして天皇主義者になるという定型を歩んだ。
「この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。」
そう、思い出したよ。
私はこれを読んで、以後絶対に「日本的小情況」を見くびらないことを自戒のことばとしたのである。
そうして、私はまず武道の稽古を始めたのである。
「日本の封建性の優性遺伝的な因子」と吉本が呼んだものが、多田先生のいわれる「心法の道」と同じものを意味するということがわかるまで、それからさらに30年ほどかかったが。
「新昭和人論」は「白川静論」とともになかなかよい文章である。
それにしても、この致死的スケジュールの中で、よくこれだけの量を書くよな。
これから東京である。
明日は慶應で日本英文学会。
私はシンポジウムで柴田元幸さんたちと「アメリカ文学の(原)風景」について、3時間ほどおしゃべりをせねばないのだが、そんなに話すネタが私にはない。
ああ、どうしよう。
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