音楽との対話

2007-05-17 jeudi

締め切りが迫っているので、日記なんか書いている暇はないのであるが、昨日の「音楽との対話」で心温まる事件があったので、ひとことだけ。
「音楽との対話」というのは、音楽学部の先生と文学部、人間科学部の教師とが何組かペアになって一組が三週にわたり、異文化交流・異種格闘技をする様子を学生さんにご覧いただくという結構の授業である。
よいアイディアである。
私の相方は声楽の斉藤言子先生である。
斉藤先生とは「会議仲間」であって、この二年間たいへん長い時間を会議で共に過ごした。
「会議仲間」というのは「戦友」というか、「ともにまずいものを喰った仲間」というか、「思わず、とんとんと相手の肩を叩きたくなる」関係である。
というわけで、斉藤先生とは仲良しなのである(斉藤先生のご主人が日比谷高校で私のイッコ先輩という奇縁もある)。
私は音楽に限らず人間の発する音韻の選択に興味があり、声楽家の斉藤先生にじっくりとその辺のお話を訊こうと思って、この授業を楽しみにしていたのである。
先週が第一回で、イントロは大瀧詠一師匠の「恋するふたり」。
「幸せな結末」のCDが棚を探しても見あたらなかったので(だいたい授業の1時間前に準備を始めるという態度がいけない)、「カ行」「ガ行」の発音と鼻濁音というテーマであったので、師匠の近作の方を持っていった。
これが思いがけなく「当たり」で、師匠はこの曲を「カ行」音韻で決めまくっていたのである。
「つかみ」はこんな具合である。

春はいつでも トキメキの夜明け
奏でるメロディー 恋の予感響かせ
Boy meets girl Girl meets boy
青い空の下で 奇跡のように めぐり逢う

わずか4行のうちに、「キ」「キ」「け」「か」「こ」「か」「か」「き」と8音カ行音が畳み込まれている。
そして聴かせどころは真ん中の Boy meets girl Girl meets boy なのであるが、ここでは師匠のもっとも得意とする鼻濁音「んが〜」が朗々と二度にわたり響きわたる構成となっているのである。
私どもはポップスの歌詞を意味レベルで評価する傾向があるけれど、人間の声が「楽器」である以上、歌詞における音韻の選択には必ずや歌手ごとに「偏り」があってしかるべきなのである。
音韻選択の特殊性については以前このブログでも書いたけれど、小学校の学級内で「エ」音が耳につきだしたら危険信号だということを現場の先生が報告していたことがある。
「うるせえ」「しね」「だまれ」「だせえ」「うぜえ」・・・といった「エ」音で文末が終止する文は攻撃的なニュアンスをともなう。
「イ」音もまた、ある種の緊張感をもたらし、聴き手に「ペンディング」された感じ、宙づり感をもたらす。
日本語文法では「イ」音は連用形に用いられる。
お忘れのかたも多いであろうが、現代文法では「ます」を続けるかたちが連用形である。
下一段活用(聞こえる→聞こえ)を除く、五段活用(立つ→立ち)、上一段活用(用いる→用い)、カ行変格活用(来る→き)、サ行変格活用(する→し)の四つの活用形において連用形はご覧の通りいずれも「イ」音を取る。
つまり音韻としての「イ」には、「このあとまだ音が続きますよ」という非終止感と浮遊感をもたらす効果がある。
そして、おそらくこれは万国共通なのである。
だから「イ」音を響かせると、歌は「不安」や「とまどい」や「ためらい」といった情感を帯びることになる。
というところで、「イ」音をばりばりに利かせた名曲を一つお聴かせする。
キャロル・キングの Will you love me tomorrow である。
これは1971年のキャロル・キング最大のヒットアルバム(302週にわたって全米トップ100にトチャートインしたギネスブック的ヒット)「つづれ織り」(Tapestry) に収録された名曲中の名曲であるが、作詞はキャロル・キングの夫のジェリー・ゴフィン。
Will you love me tomorrow の歌詞は「i」音の乱れ打ちという特殊なものとなっている。
「つかみ」はこんな感じ

Tonight you’re mine completely
you give your love so sweetly
Tonight the light of love is in your eyes
But will you love me tomorrow

聴けばわかるけれど、最大のきかせどころは「コンプリ〜トゥリ〜」と「ソ〜スウィートゥリ〜」の「リ」責めである。その他に tonight, mine, give, light, is, in, eyes, will, meと随所に[i]音が響きわたる。
そしてこの歌は「一夜をともにすごして、夜明け前のベッドで男の寝姿をみつめている女の不安」を歌ったものであるから、[i]音の選択はたいへんに正しかったのである。
それと同時に、作詞のジェリー・ゴフィン自身が妻キャロルの発する音の中で、とりわけ[i]音を好んだという可能性も棄てきれない。
作詞作曲を夫婦で行うペアは多いが、これはヴォーカリストが自分で作詞するより、「ヴォーカリストを愛する人」が作詞した方が「エロティックな音韻」についての選択が適切であることが経験的に知られているからである。
私はジェリー・ゴフィンが妻が彼に語りかけた言葉のうちで、[i]の音韻をもっとも愛したという解釈を好むのである。
斉藤先生はこれを聴いて、さっそくイタリアのオペラのアリアでも[i]音の乱れ打ちというのがあります・・・とすっくと立ち上がって歌い始めた(声楽家はこれができるのが強みである)。
このアリアはやはりある種の「不安」や「緊張」を意味する内容であった。
そんな感じで、次々とCDをかけながら、人間の出す声とはどのようなものかを3時間にわたって論じたのである。
聴かせたのは師匠とキャロル・キングの他にジェームス・テイラー、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、カレン・カーペンター。
いずれも発声法に独特の工夫のあるシンガーたちである。
次回は倍音について論じ、声明とホーミーの音源を聴かせたあとに、学生たちに倍音声明を実験してもらう予定である。
一回目の授業が終わったあとに、学生がやってきて、「先生、今日の授業、ツボにはまりました」と紅潮した顔で告げてくれた。
うれしいことである。
二回目の授業のあとには、別の学生が「さきほど聴かせてくれたジェームス・テイラーの曲名をもう一度教えてください」と言ってきたので「Handy man」というタイトルをご教示する。
JT のHandy man はJ・D・Souther のSimple man simple dream、Neil Young の Only love can break your heart とともに私のオールタイム「鼻声男性シンガー」ベスト3の一曲なので、「いい曲ですね」と言われてちょっと感動してしまったのである。
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