韻文で、しゃべりだしたら、おしまいだ

2007-05-16 mercredi

「忙しい」と言う間もないほど、忙しい。
口調のよい言葉はだいたい五七五であることはご案内のとおりであるが、一昨日の朝、新聞を取りにエレベーターに乗ろうとしていたときに、ふと「全日本学生自治会総連合」という言葉が脳裏に浮かんだ。
どうして全学連運動が60年安保のときにあれほどの動員力を持ち得たのかについては政治史的には諸説があり、どれももっともなものであるが、まさか団体名が五七五であったことが与っていたとは気づかなかった。
間違いなく前衛俳句の世界では1950年代に「全日本学生自治会総連合」で投句したやつがいると思う。
絶対いる(落選したので、人口に膾炙する機会は逸したが)。
本学では久しく英文科が看板学科であるが、それは「神戸女学院大学英文科」が五七五であることが無関係であるとは思われない。
英文科の教員のうちにかつてこの事実に気づいた人はあったであろうか。
私も本のタイトルはできるだけ5モーラ、8モーラでゆきたいのであるが、なかなかむずかしいものである。

朝起きるとぴんぽーんとチャイムが鳴って、宅急便のお兄ちゃんが気の毒そうに「お荷物三つです」と届けてくれた。
同サイズの紙袋が三つ。
筑摩書房と角川書店と文藝春秋からである。
ご明察のとおり、ゲラである。
開封するときっと「○月○日までに初校ご返送ください」という手紙が入るに決まっているので、そっと視野の外に押し出す。
忘れよう。
忘れよう。昔のことは。思い出したくない。(@伊藤銀次)
とりあえず日曜までに締め切りが三つあり、そのうちの一番長い文藝春秋の原稿はまだ一行も書いていないのである。
そして日曜には日本英文学会で柴田元幸さんを相手に私はアメリカ文学の原風景についてなにごとかを語らねばならない(らしい)。
なにごとかを語るためには、いくら私でも「仕込み」というものが必要なのであるが、その日曜が文春の締め切り日なので、「仕込み」のために割くことのできる時間は限りなくゼロに近いのである。
日曜に慶應義塾大学のシンポジウム会場で、語るべきことを何一つ思いつかず、「・・・・」と青ざめて絶句している私を見て、大会役員控え室では「ウチダを呼ぼうといったのは、いったい誰なんだ!」と怒号が鳴り響いているであろうが、それはトコーくんたちです。
悪いのは彼らです。
ぼくぢゃないです。

死ぬほど忙しい中にも朗報があった。
レヴィナス老師の『困難な自由』の新訳が国文社から日の目を見ることになったのである。
喜んでくれ、諸君。
契約の関係があって、63年版の翻訳を出すほかないので、現在普及している版に収録されている論文のうちいくつかは削除しなければならない。
だが、すでに旧訳が絶版となり、翻訳権を取った新訳もなかなか出ない状況では、旧版を底本とするものであっても老師の訳書が読まれることは弟子としてうれしいことである。
いずれ新訳も出版されるであろうが、『困難な自由』のような名著の場合は複数の訳本が併存していることは決して悪いことではないと思う。新訳の出版社もそのように考えてくれるとありがたいのであるが。
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