『大航海』のための白川静論20枚をようやく脱稿。
白川先生の追悼特集号に寄稿を依頼されたのである。
名誉なことである。
しかし、GWの忙しい間だったので、集中的に執筆する時間がとれない。
1時間、2時間とぶつ切りで執筆時間を確保して、学校に行く前の時間や、昼休みにカップヌードルを啜りながら書いた。
そのせいで家の中はぐちゃぐちゃになってしまった(掃除もしないで、ずっと机に向かっていたからである)。
締め切りに二日遅れてようやく書き上げて、送稿。
ふう。
五月は締め切り原稿が9つある。だいたい3日に1本書いている勘定になる。
「エピス」と「水脈」と「大航海」が終わったので、残り6つ。「文藝春秋」と「子どもと体育」と「熱風」と「共同通信」と「日本経済新聞」と「月刊武道」。
月から金まで毎日フルに大学に出勤する合間に、京都に山菜を食べに行ったり、広島に多田先生の講習会に行ったり、東京で英文学と合気道全国大会と五月祭の演武会に出たり、県民体育大会の開会式で行進したり、次々と押し寄せるゲラをチェックしたり、麻雀をしたり、宴会をしたりする隙間にそれらの原稿を書いているのである。
原稿の依頼テーマも今回は白川先生追悼であるが、武道、憲法、銃規制と支離滅裂。
私はいったい何の専門家なのであろうか、とときどき考え込んでしまうが、もちろん考え込んでいる暇などないので、とりあえずキーボードに頼まれた字数分の原稿をばしばし叩き込む。
それにしても月間締め切り9本というのは、カタギの管理職サラリーマンにとっては常軌を逸した数である。
断ればいいじゃないか、とおっしゃるであろう。
たしかに。
でも、9本のうち3本は継続的な連載ものである。
残りは6本。
しかるに、白川静先生から受けた学恩を思えば、私に追悼文の寄稿を断る資格があろうか? 改憲へ向けた政局を眺めて憲法九条の政治史的意味についての吟味を怠ることができるであろうか? 宮崎駿のファンでありながら、ジブリからの原稿依頼を断れるものがいるであろうか?
いずれも断り切れぬ義理があることはご諒察いただけるであろう。
とはいえ、ほんとうは別の理由がある。
締め切りに追われて原稿を書き続けていると、ある種の「締め切りアディクト」状態になる。
これはなったことのない人にはわからないであろうが、けっこう「気分のいい」ものなのである。
締め切りが迫ってタイトな心身状態が継続すると、人間の脳は「とりあえず火事場の馬鹿力を出してここを乗り切れ」とばかりに脳内麻薬物質をどばっと放出する。
するとシャブを決めたジャンキーのように一時的な高揚感と多幸感が訪れて、「おお、いくらでも書ける」というライティング・ハイの状態になるのである。
これは一度味わうと病みつきになる。
ここまで切羽詰まると「手持ちの知識」や「予て用意の知見」などをいくら順列組み合わせしてももうネタ切れとなることはあきらかである。
で、ネタを「よそ」から取り込んでくることになる。
これはランナーズ・ハイにおいて、「セカンド・ウィンド」が吹くと、もう残っていなかったはずのエネルギーの備蓄がやけくそで放出されて、ある種の全能感が甦るのと似ている。
とにかくこうなったら「使えるものは全部使え」ということになる。
海賊船に追われた船が船足を稼ぐために、船室にあるものをばんばん海に放り込むように、これまでの56年の人生でためこんだあらゆるバカ情報ゴミ知識が甲板上に所狭しと並ぶ。
それらは「使い物にならない」というタグを貼られて船倉奥深くに死蔵されていたものである。
しかし、もうそれしか「使い物」がない。
要は「ゴミ」の再利用なのであるが、ゴミとはいえ、死蔵されるよりは再利用されるとなると「うれしい」。
「え、またお役に立てるんですか?」とゴミが喜ぶのである。
ゴミが「じゃあ、がんばります」と奮い立つのである。
ゴミのオーバーアチーブメントによって、ライティング・マシンが加速するのである(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でドクが発明した「ゴミで動くタイムマシン」を想像していただければよろしい)。
この脳内備蓄ゴミの完全燃焼が「ライティング・ハイ」を生み出すのである。
それは言い換えると、「ということは、私の人生には無駄なことは一瞬とてなかったのだ・・・」という予想外の副作用をもたらす。
どうやらこれが締め切りアディクションの主因のように思われる。
私たちはできるだけ効率的に無駄なく生きようとする。
けれども、その発想そのものを換えてはどうかと私は思う。
あらゆる無駄や愚行さえをも「燃料」として使用せねばならぬ状況に自分を追い込めば、理論的に人生に無駄な瞬間は存在しないからである。
でも、今回の白川静論は自分ながらよく書けたと思う。
『大航海』を立ち読みする機会があったら、読んで下さいね。
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(2007-05-12 11:26)