日本英文学会で柴田元幸さんたちとおしゃべりする

2007-05-20 dimanche

日本英文学会のシンポジウムのために東京まででかける。お題は「アメリカ文化と反復強迫-アメリカ文学の中に書き込まれた(原)風景」。
相方は都甲幸治早稲田大学准教授、大和田俊之慶応義塾大学専任講師という若手お二人と、柴田元幸さん。
以前、DHCのイベントで柴田さんと対談したあとの打ち上げの席で、都甲くんと大和田くんに、「こんどは英文学会に来て下さいよ」言われて、一杯機嫌で「いいよん」と気楽に返事をしたせいで、このようなことになったのである。
大会前に送られてきたレジュメを読むと、どうもみなさんいろいろとむずかしい文学の話をされるようである。
困ったことに、私はアメリカ文学のことなんかろくに知らないし、アメリカ文学の中に分析的な意味でどのような原光景が書き込まれているのか、まるで想像がつかない。
でも、アメリカという国がそのユニークな起源とユニークな歴史の中でどのようなユニークな文化的病像を呈するに至ったかについては、つねに変わらぬ興味を抱いている。
断片的な考察は『街場のアメリカ論』や『映画の構造分析』や『女は何を欲望するか』にこれまでぱらぱらと書いてきた。私の奇天烈なアメリカ論とアカデミックなアメリカ研究の接近遭遇でどのような話が転がり出るか、それが楽しみでやってきたのである。
新幹線の中で「予習」として柴田さんの『アメリカン・ナルシス』を読む。
その「あとがき」に柴田さんはこう書いていた。

「極端に言うなら、アメリカにおいて、現実とはアメリカの半分でしかない。あとの半分は、いまだ達成されていない理想である。半分は夢でできた国なのだ。『ここは自由の国なのだ』とアメリカの人々が言うとき、僕にはそれは事実の表明には聞こえない。むしろ、『自由の国であるはずだ』という理想の表明に聞こえる。むろん、この言葉の理念が歪められ、独善的に使われたりすることもある。だがその本来の理念が、アメリカという国を作り、変えていく上で大きな力になってきたことは確かだ。そこが他国とは違う。日本について人が『ここは・・・の国だ』と言うとき、その『・・・』はあくまで慣習や前例のことである。いまだ実現されざる理念のことではない。
問題は、そのような理想へ向かっての永久運動のなかに身を置くのではなく、アメリカが自分たちをすでに達成された理想もしくは『正義』として固定し、他国をその正義への向かわせようとするときである。立ち止まると、この国は駄目なのだ。」(『アメリカン・ナルシス メルヴィルからミルハウザーまで』、東京大学出版会、2005年、233頁)

私はこれを読んでびっくりしてしまった。
というのは、大会のレジュメに私はこれとほとんど同じ言葉づかいでアメリカについて書いていたからである。こんな文章である。

「移民たちが作ったこの『理想国家』はもとがヴァーチャルであるゆえの、底知れない可塑性を持っている。アメリカ人が『アメリカは・・・である』という事実認知的言明を発するとき、彼らは実は『アメリカは・・・になれる(なれるはずだ)』という遂行的言明を語っているのである。アメリカの底力はたぶんこの『前倒し』体質のうちに存する」(第79回大会資料、40頁)

誰が読んでも、「あ、柴田さんをパクったな」と思ったであろうが、そうではないのである。
私たちは期せずして、ほとんど同じことを、つまりアメリカにおける理想と現実の二重性について、それがアメリカの力の源泉であり、同時にアキレスの踵でもあることを指摘したのである。
ほんとよ。

シンポジウムではまず都甲くんが Don DeLillo という作家の話をする。
「ケネディ暗殺」がある断絶を呼び込み、それによって「ケネディ暗殺以前/以後」という時代区分が生成した・・・という話がある。
「暗殺の結果として、アメリカ人は筋の通った現実を生きているという感覚を失ったとぼくは考えている。ぼくたちは無原則とあいまいさの時代に突然足を踏み入れたような気がする。」(DeLillo, Sunday Times Magazine)
この「断絶」の仕掛け人はリー・ハーベイ・オズワルド。
彼は元海兵隊員で、ソ連のスパイかCIAのダブルエージェントかどちらかかあるいはどちらでもなく、自称マルクス主義者で、右翼ともマフィアともつながりのあったらしいわけのわからない人物である。「自己矛盾」がこの人物の首尾一貫した性格である。
DeLillo はオズワルドのうちにアメリカの「断絶」を読み解く手がかりを求めた作家のようである。
都甲くんのプレゼンがたいへん面白かったので、さっそく読んでみることにする。

大和田くんは「Melville と反復」という話。
Moby Dick は復讐劇であるから、Ahab 船長と白鯨は二度出会っているはずであるが、一度目の出会いについては、ほとんど言及がない。
そういえばそうだね。
イシュメールという語り手も、ほんとうにそういう名前の人物かどうかわからない。
イシュマエルは『創世記』に出てくるアブラハムの女奴隷ハガル息子の名である。
エイハブも聖書に出てくる偶像崇拝者アハブ王の名を名乗っている。
物語は「再演」されることで、そのつど「起源」が存在することのたしかさを遡及的に構築するように構造化されている。
なるほど。
これもまたある種の「述而不作」戦略といえるのかも知れない。
違うのかも知れない。
メルヴィルは9/11以降にアメリカで繰り返し言及されるようになったそうである。
メルヴィルがアメリカ人がおのれの存在の根拠について、その正統性について疑念を抱くときに呼び出される作家であるとしたら、たしかに「国民的作家」と呼ぶべきであろう。
メルヴィル死後のメルヴィル再評価運動そのものがメルヴィルを「文豪」に列した。
つまりメルヴィル自身が「再演」されることで「起源」の地位を獲得したのである。
なるほど、そうであったか。
若い人たちの話はスリリングである。

次に柴田さんのお話。
これもたいへんインパクトのある大ネタだったので、持ち時間10分の途中で切り上げてしまわれては私の力量ではまとめきれない。いずれ柴田さんの論文のかたちでみなさんもお読みになる機会があるだろう。
「アメリカ」には矛盾する語義が含まれているという柴田さんの発題の一部を引き継ぐかたちで次のようなことをしゃべる。
アメリカは「葛藤」しているときにパフォーマンスが上がる。
だから、絶えず「葛藤」が生成するように制度化されている。
「理想」と「現実」の葛藤はもっとも多産的な葛藤の一つである。
『街場のアメリカ論』に書いたように、アメリカは建国の段階ですでに「理想国家」として完成していた。だからアメリカ的システムには改善の余地がない。アメリカ的システムが不調になるのは(マッカーシズムがみごとに言語化したように)「非米的」な要素が侵入した場合だけである。
「非米的要素」の排除は「内戦」のメタファーで語られるが、それは「改善」とは違う。非米的要素がアメリカ的システムに侵入してくるのは、アメリカ的システムの本態的な不調ではない。
だから、システムそのものにはすこしも改善の余地はなく、ただ、偶然的にアメリカに入り込んできた「異物」を除去すれば万事オッケーなのである。
システムの本態的不調ということを認めない代わりにアメリカ人は「異物」の感知についてはすぐれた能力を発揮する。
例えば、アメリカでは統治者が「邪悪で愚鈍」であるという可能性を勘定に入れて統治システムが構築されている。
政治家が有徳であるようにしむける教化システムは存在しないが、不徳で愚鈍な政治家がもたらす災厄を最小限にとどめる安全装置は整備されている。
建国の父たちは、自分たちが「理想国家」を作ったという自負と、自分たちの跡を継ぐものたち(の相当部分)が「邪悪で愚鈍な統治者」であるという見通しを平気で両立させたのである。
理想はすでに完成された。あとは堕落と逸脱だけしかない。
だから、堕落と逸脱をできるだけすみやかに感知し、すぐに補正するシステムをアメリカ人は作ったのである。
建国時における「理想国家がここにある」という事実認知と「この理想国家は愚鈍な統治者によって必ず損なわれるだろう」という予言のあいだの「葛藤」が以後のアメリカの驚異的な成長を促した。
現代アメリカでは話の順番が逆になって「愚鈍な統治者によってアメリカは損なわれている」という事実認知と、「しかし、アメリカは理想国家に必ず回帰するであろう」という予言のあいだの葛藤を推力にアメリカはとりあえず繁栄を続けている。言明の順番は変わったが、言明間に矛盾が保持されていることは230年前から変わらない。
葛藤を拡大再生産するメカニズムをもつことでアメリカは歴史上まれな成功を収めることができた。
だから、アメリカを呼称するときは America! America! と語義を変えて二回呼ばなければならないのである。
というようなことを話せばよかったのであるが、実際にはついつい持ちネタのユダヤ系アメリカ人の話ばかりしてしまった。
3時間にわたる長丁場のシンポジウムが終わり、よれよれとなってコーディネイターの成蹊大学の下河辺美知子先生(シンポジウムのタイトルを考えたのは下河辺先生である)といっしょに打ち上げビール。
昼酒ですっかりいい気分になって新幹線で芦屋に戻る。
柴田先生はじめ、シンポジウムにお招きくださった英文学会のみなさんに感謝いたします。
とっても面白かったです。
今日仕込んだネタでまたあれこれと書かせていただきます。
都甲くん、大和田くん、また老生と遊んでくださいね。
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