掃除と憲法

2007-03-26 lundi

いろいろなところからいろいろなテーマで取材が来る。
既視感のある表現であるが、私の人生はもはやほとんど既視感だけで出来上がっている状態であるので、仕方がない。
午前中は「掃除について」、PHPの取材。
ブログに「煤払いをした」とか書いたせいで、掃除について一家言ある人間だと思われたらしい。
年末になったら「煤払い」くらいふつうするでしょ。
しないのかね、知識人諸君は。
掃除について論じるウチダ氏の部屋は掃除が行き届いていないので、ぐちゃぐちゃである。
そんな部屋をばしばし写真を撮られてしまい、天下に言行不一致をさらすことになってしまった。
ええ口惜しい。
だったら、はじめからそんな取材受けなければよいではないかと思われるだろうが、私の立場になっていただければ、わかる。
取材の依頼を断るというのはたいへん面倒なことなのである。
取材のオッケーは簡単である。
「あ、いいすよ」
これで終わりである。
断るのはそれだけでは済まない。
まず「たいへん申し訳ないのであるが貴意に添いがたい」ということをていねいに申し上げねばならない。
先方は必ず「理由」を訊いてくる。
実際には「めんどい」という以外に理由はないのであるが、「その日は生憎先約が」とか「体調がすぐれず」とか相手が納得するような理由をとっさに捏造せねばならない。
むろん先方は「では日にちを改めて」と切り返してくる。
「いや、ですからね。そのようなテーマについては、私は不適切な人選ではないか、と」
「なになに、人選の適否についてウチダさんがご心配されるには及ばない。それはこちらの仕事である。あなたの話があまりに無内容で記事にならない場合も、それはあなたに取材を申し込んだこちらの自己責任であるから、どうぞお気楽に。ははは」
まあ話がここまでもつれるとさすがに取材は成立しないのであるが、逆に言えば、そこまで相手に非道いことを言わせないと私には断る踏ん切りがつかないのである。
仕事を断るためには、謝ったり、言い訳を考えたり、腹を立てたり、いろいろ面倒なことをしなければならない。
忙しい場合に、電話口でこの手の押し問答を繰り広げるのはたいへん苦痛である。
無事に断り切った場合でも、最後に先方は「ふん」と鼻を鳴らして、「じゃあ、いいですよ。ガチャン」と電話を切るので、私はこめかみに青筋を立てたまま、ウィスキーをがぶりと飲み干すことになる。
仕事を断るのは健康に悪い。
その点、仕事を引き受けるのは「あ、いいすよ」の「二つ返事」で済む。
心理的負荷がぜんぜん違う。
それに、苦しむのはインタビューを受ける日の未来の私であって、電話口にいる現在の私ではない。
「未来の私」に向かって「すまぬ」と片手拝みをしながら、私は承諾の返事を与えてしまうのである。
最後の手段として、今後は「インタビュー料として一律1時間20万円を頂戴しております」というような強硬策に出るという手もある。これなら間違いなくすべてのインタビューから解放されるのであるが、その度胸がないのが切ない。

「掃除の話」を2時間(よくそんな話だけで引っ張るものである)したあと、次は朝日新聞の改憲問題のインタビュー。
「赤旗」「朝日新聞」と「護憲派の立場からひとこと」という要請が続く。
どうも昨今公的立場にある人は「護憲」というと肩身が狭いらしく、取材の依頼にも「いや、ほんとうは護憲なんですけど、記事にされるとね。ちょっと世間的にマズイので・・・ま、ひとつご勘弁を」と逃げてしまうらしい。
私のところにまで護憲のコメントが回ってくるということは、フクシマミズホ的でない語り口で護憲を論じる人があまりいらっしゃらないということなのであろう。
困ったことである。
日本国憲法は現代日本の現実と乖離している。
当たり前である。
憲法というのは「努力目標」である。
現実と乖離しているから改憲しろというのは、「平和な世界を作りましょう」という目標を掲げている人間に向かって、「そんなことを言っても現実的ではないから、『世界はあまり平和ではありません』に書き換えろ」と言っているのと同じである。
「世界はあまり平和ではありません」というのは事実認知的には100%正しいけれど、いかなる遂行的メッセージも含まない。
現実に合わせて憲法を改定しろというのなら、第一条を「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であるが、象徴というのはどういうことかはよくわからない。この地位は主権の存する日本国民の総意に基づくとされているが、日本国民の総意は訊いたことがないので、よくわからない」とするところから改憲したらどうだろう。
11条は「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられないが、妨げられている人もいる。この憲法が国民に保証する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられるはずだが、憲法が変わった場合や内戦やら飢饉やら日本沈没の場合にはその限りではないので、『侵すことのできる、暫定的な権利』にすぎず、もしかすると(たぶん)将来の国民には与えられないであろう」に改憲したらどうだろう。
これなら現実との不整合は原理的になくなる。
憲法が「タフでクールな現実と整合している」ということと「国民をある理想社会にむけて導く遂行的メッセージを発信する」ということは両立しない。
どちらかを取るしかない。
憲法が現実離れしているのは、世界のどこの国でも似たようなものである。
コスタリカは平和憲法を掲げているが、実体は米州機構の一員で武装国家である。
オーストリアは永世中立を掲げているがEUのメンバーなので安全保障の枠組みの中にいる。
イタリアは憲法で「他の人民の自由を侵害する手段および国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する」と謳っているけれど、イラク戦争には派兵している。
中国の憲法は「中国は独立し自主的な対外政策を堅持し、領土主権の尊重、不侵略、不干渉、平等互恵、平和共存の5原則を堅持し、各国の外国関係と経済、文化交流を発展させる」と書いているけれど、チベットやベトナムに対して行ったことが「侵略」でも「干渉」でもないなら、あれは一体何なのだ?
だが、憲法というのは「そういうもの」である。
私たちが中国人に向かって告げるべきなのは、「そういう非現実的な憲法は廃棄して、『必要があれば、他国の領土を侵犯することもある』と書き換えた方が現実との整合性がよろしいのではないか」というようなお節介ではなく、「あの〜、せっかく憲法に書いてあるんですから、その通りにやってくれませんか?」という懇請の言葉であろう。
憲法は現実離れしているがゆえに、ささやかな規制力を保持している。
それでよいと私は思う。
政治家諸君が選挙のときに掲げる「公約」とか「マニフェスト」とか、あるでしょ。
憲法というのは「あれ」ですよ。
政治家諸氏とても、実現が無理かなあとは思っても、「できることなら実現したい」と願ってはいる。
そういう自分の気持ちは「可憐」だと思える諸君がどうして日本国憲法にはご自身に向けるような寛仁大度を示せないことがあろうか。
かつて小泉首相は「公約を破るくらいのことはたいしたことじゃない」と公言して話題になった。
公約は公約、現実は現実である。
公約を実現したかったが、たまには諸般の事情でそうもゆかぬこともある。
そうだろうとも。言いたいことは私にはわかる。
小泉君とても、べつに「私の掲げた公約は空文である」ということを言いたかったわけではない。
現実は現実、公約は公約である。
願わくは、その同じロジックで憲法をも論じていただきたいと思う。
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