「クールなメディア」にちょっとつけたし

2007-03-18 dimanche

平川くんのブログを読んだら、堀江貴文元ライブドア社長の裁判についてコメントがしてあった。
「クール」だ。
ぼくたちがマスメディアでけっして読むことができないのは、この種のクールでラディカルな分析である。
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/
どうしてこのような「まっとうな」分析がメディアには掲載されないのだろう。
おおくのメディアはたぶん「うちの読者にはむずかしすぎる」という理由で掲載を見合わせているのだろう。
だが、メディアは「できるだけ読者に知的負荷をかけない情報」だけを選択的に提供し続けていることについてもうすこし病識を持った方がいいと思う。
日本人全体が知的に劣化してゆくことでたしかに短期間的にメディアは利益を得ることができる(仕事が楽だからね)。
けれども、それは短い期間だけだ。
読者のリテラシーをひたすら下方修正することを競い合っていれば、遠からず日本人が誰も新聞を読まなくなる日が来る。
そのとき相当数のジャーナリストは路頭に迷うことになるだろう。
平川くんに倣って言えば、「自己責任」という言葉はこういうときに使うためにとっておいた方がいい。
ぼくはそれと似たケースを知っている。
仏文学者たちは1970年代からあと「読者に無意味な知的負荷をかけ続ける」テクストだけを 30 年間選択的に提供し続けた。
べつに読者のリテラシーを高く評価していたわけではない。
「これくらいのハードルを越えられないやつは、『こっち』に来るな」といって人を追い払っていたのである。
やがて彼らの書くものはあまりに難解となり、ついに身内の同業者でさえ理解できないレベルにまで達した。
そして、気がついたら、仏文科に進学してくる学生はほとんどいなくなっていた(だってそこでなにをしているのか、さっぱり意味がわからないんだから)。
そして、仏文学者であることが生業として成立しなくなった。
このふたつの事例は逆の事態のように見えるけれど、実は同じひとつの現象の裏表である。
どちらにも欠けていたものがある。
それは「読者への敬意」である。
「私が『まっとうな』知見であると思うものについては、それに同意してくれる読者が(それほど多くないにしても)必ずいるに違いない」という確信だけが、「読者への敬意」を担保する。
この「当たり前のこと」をもういちど思い出してほしいと思う。
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