風邪を引いたのでミステリーでも読もう

2007-03-20 mardi

また風邪を引いてしまった。げほげほ。
ほんとに蒲柳の質である。
免疫力が低下しているということであり、要するに疲れているんですね。
あまりに仕事が多いから。
新規の仕事は全部断っているのであるが、インタビューはぺらぺら話すだけで終わりだから大丈夫だろうと思って次々に引き受けてしまったが、やはりそのあとに「ゲラ」というものが来て、これを校正しなければならない。
たしかに「そういうこと」は言ったのだが、そういう文脈じゃなかったでしょ・・・とか、「そういう内容のこと」は言ったけれど、そういう言葉づかいはしてないでしょ・・・とか、いろいろ屈託がある。
あまりばっさり直すと、まとめた編集者だって「むっ」とするだろうから、できれば手を入れずに済ませたいのであるが、なかなかそうもゆかない。
これまでのベストインタビューは橋本さんと大越くんのもので、これは読んだ私自身が「ウチダっておもしろい人だなあ、会ってみたいなあ」と思ったくらいである(ということは、やっぱり「私とは別人」についてのインタビューだったということなのだが、読んだ私が「こんなえらそうなことを言うやつには会いたくないな」と思うのとはだいぶ差がある)。
そんなインタビュー記事がどかどかとまとめてやってくるのでさくさくと校正してゆく。
げほげほと咳き込みながら、けっこう気疲れなことである。
絶不調となったので、あきらめて夕方からパジャマに着替えて風邪薬を飲んで、蒲団にもぐりこむ。
目が醒めると夜の八時である。
退屈なので、寝床の中で村上春樹訳『ロング・グッドバイ』を読む。
579頁もあって、片手では持てないくらい重い。
清水俊二『長いお別れ』はたぶんこれまでに5回くらい読んでいるけれど、この新訳はぜんぜん違和感がない。
清水訳は実は「抄訳」だったそうである。
知らなかった。
だから、読んでいると「おや、これははじめて読む場面だ・・・」というのに何度もでくわす。
劇場公開版を見たあとに、「ディレクターズ・カット版」を見るような感じである。
なるほど、チャンドラーはこういう細部に「こだわり」があったのか・・・ということがよくわかる。
そして、読んでいるうちに(ある意味当然だけれど)、「これって、まるっと『グレート・ギャツビイ』じゃないか・・・」ということに思い当たった。
これまで5回くらい清水訳で読んでいて、そのときにはギャツビイと「同じ話」だなんて一度も思ってことがなかったのに、村上訳で読んだら「まるで同じ話」だったことにすぐ気づいた。
これについては村上春樹自身が「あとがき」でていねいに解説をしているので、「あとぢえ」だと思われそうだけれど、ほんとに読んでいる最中からずっとそう思っていて、途中からは「だとすると、誰がデイジーで、誰がトムなんだろう・・・。あ、そうか。アイリーンがデイジーで、ロジャー・ウェイドがトム・ブキャナンなんだ」というふうに考えながら読んでいたのである。
アイリーンとテリー・レノックスの関係は、デイジーとジェイ・ギャツビイの関係と「まったく同じ」である。
ギャツビイ=レノックスがデイジー=アイリーンの犯した「殺人」の罪を着て「死ぬ」ことで空虚な恋に結末をつけるというところも同じだ。
そして、物語の最後、テリー・レノックスが変装してフィリップ・マーロウの事務所にやってきて、最後の会話が始まったときにぼくは「そういえばテリー・レノックスはどこで『いつから僕だってことがわかっていたんだい』という台詞を口にするんだろう・・・」と思って読み進んでいるうちに、そんな台詞は『ロング・グッドバイ』には存在しないことに気がついた。
だって、それは『羊をめぐる冒険』のラストシーンで「鼠」が「僕」に言う台詞だったからだ。
ああ、そうだったのか。
『羊をめぐる冒険』は村上版の『ロング・グッドバイ』だったんだ。
運転手のエイモス(T・S・エリオットの詩についてマーロウと論じ合う、ディセントな運転手)は「いわし」の命名者である「宗教的運転手」とまるで同一人物だし、「先生」はハーラン・ポッターだし、「黒服の秘書」の相貌はドクター・ヴェリンジャーのところにいる伊達男「アール」とウェイド家のハウスボーイ「キャンディ」に生き写しだ。
どうして村上春樹がアメリカで高いポピュラリティを獲得したのか、その理由のひとつがわかった。
村上春樹の小説はアメリカ人がおそらくもっとも愛しているこの二つの小説の世紀末東アジアに出現した奇跡的な Avatar だったからである。
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