朝日新聞にこんな記事があった。
米バーモント州にある名門ミドルベリー大学の史学部が、オンラインで一定の利用者が書き込んだり修正したりできる百科事典「ウィキペディア」を学生がテストやリポートで引用することを認めない措置を1月に決めた。日本史の講義をもつ同大教授がテストでの共通の間違いをたどったところ、ウィキペディア(英語版)の「島原の乱」(1637〜38)をめぐる記述にたどり着いたことが措置導入の一つのきっかけになった。
日本史を教えるニール・ウオーターズ教授(61)は昨年12月の学期末テストで、二十数人のクラスで数人が島原の乱について「イエズス会が反乱勢力を支援した」と記述したことに気づいた。「イエズス会が九州でおおっぴらに活動できる状態になかった」と不思議に思って間違いのもとをたどったところ、ウィキペディアの「島原の乱」の項目に行き着いた。
ウィキペディアに基づいて答案を書いたと思われる例は以前からあったという。「大変便利で、調べごとの導入に使うことに全く異存はないが、一部の学生は書いてあることをそのまま信じてしまう」と教授は言う。
同大史学部では1月、「学生は自らの提供する情報の正確さに責任をもつべきで、ウィキペディアや同様の情報源を誤りの言い逃れにできない」として引用禁止を通知した。ドン・ワイアット学部長によると、「同様の情報源」とはウェブ上にあって多数の人間が編集することができ、記述の正確さが担保できない情報源を指すという。
ウィキペディアの創始者のジミー・ウェルズさん(40)は「慈善的に人間の知識を集める事業であり、ブリタニカと同様以上の質をめざして努力している。ただ、百科事典の引用は学術研究の文書には適切でないと言い続けてきた」と話す。
なかなか考えさせる話である。
ウィキペディアは最新情報のチェックにはたいへん便利なものである。
例えば、以前は現代の著名人について注を書くとき没年を調べるのに苦労した。
「最近本出してないけど、あの人まだ生きてるのかな・・・」ということってあるでしょ。
外国人の場合、死亡記事を見落としていると、本を出したあとで「あの、その人もう亡くなってますよ・・・」と知らされるいうことがある。
人名事典や百科事典はある程度歴史的風雪に耐えて、今後も久しく人々のレフェランスとして使えそうな情報は採録されているが、今はみんなが知っているが一年後には「それ、何だっけ?」というようなことになりかねない一過性の現象についての情報はない。
そういうことを調べるならブリタニカより断然ウィキペディアである。
だから、ウィキペディアで「島原の乱」のことを調べるのは「ちょっと、どうか」と私も思う。
ただ、島原の乱にイエズス会士がまったく関与していなかったといえるかどうか、これは吟味を要する論件であるように思われる。
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着したのが1549年、最初のキリシタン大名大村純忠が受洗したのが14年後の63年。
それから十数年の間に続々とキリシタン大名が誕生し、島原には神学校までできている。
すごいスピードである。
16-17世紀の日本人はキリスト教とヨーロッパの科学がもたらす変化をやすやすと受け容れた。
これは否定できない歴史的事実である。
これを防ぎ止めるためには、日本は鎖国・海禁という「異常な」政治決定による他なかった。
江戸幕府による鎖国政策ということを私たちは日本史で習うけれど、それはつねに鎖国歳策を「実施する側」のロジックを拝聴するだけで、「そういうこと」をしなければならない事情がどんなものだったかについては詳しい記述がない。
例えば、代表的な鎖国令である1636年の鎖国令にはこうある。
異国へ日本の船を派遣することを禁止する。密航者は死罪。
異国で居住する日本人が帰国したら死罪。
バテレン(宣教師)を密告したものには銀200―300枚の報奨金。
南蛮人の子孫を日本に残した者は死罪。
南蛮人の子供や、その子供を養子とした父母たちは死罪を免じて南蛮人へ渡す。ただし帰国したら死罪。
文通した者は死罪。
こういう布告が前後5回発布されている。
それはつまり、「そういうこと」をしている人が引きも切らずいたということである。
16世紀後半から17世紀前半にかけてアジアはたいへん風通しのよい地域だった(このあたりのことは真栄平先生がお詳しい)。
日本列島、琉球、台湾、フィリピン、東南アジアの海域にはさまざまな肌の色をしてさまざまな言語を語る航海者たちが自由に往来していた。
沼津の駕籠かきだった山田長政は朱印船にのってシャムに渡り、その才覚一つで王国最高官位に就いた。
納屋(呂宋)助左右衛門はルソン貿易で豊臣秀頼を驚かせるほどの巨富を築いた。
キリシタン大名高山右近は秀吉の禁令でマニラに追放されたが、その死に際しては、マニラ全市を挙げて葬儀が行われた。
細川ガラシャは明智光秀の娘で豊臣徳川両家に仕えた細川忠興の妻だが、高山右近の影響で受洗し、その葬儀を夫忠興はキリスト教式で盛大に行っている。
禁令にあるくらいだから、南蛮人と日本人の混血もかなり進んでいたと思われる。
柴田錬三郎の造型した虚無的ヒーロー眠狂四郎はイエズス会士と日本人女性の間の子どもという想定である。狂四郎のような混血児は当時にあっては決して例外的な存在ではなかった。
そういうダイナミックな歴史を考えると、島原の乱(1637-38)のあった時期に「その不法滞在を密告される可能性のあるバテレン」や「南蛮人の子ども」や「その養父母」や「文通相手」が摘発を要するほどの数存在したことは間違いない。
フロイトの卓抜な比喩を借りれば、「火に手を入れてはならない」という法律がないのは、法律がなくてもそんなことをする人間はいないからである。
「・・・してはならない」という法律があるのは、そういうことをする人間がいる、ということである。
私はこの記事を読んで、天草四郎に軍略を授ける紅毛碧眼のイエズス会士と彼の率いる秘密軍事組織のことをふと想像してしまったのである。
そういう可能性は否定できないと思うのだが、ニール・ウオーターズ教授はいかなる歴史資料に基づいて「ない」という結論に達したのであろう。
そうだ、美輪明宏に訊いて見よう!
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(2007-02-23 13:53)