驚くことばかり

2007-02-13 mardi

岸和田だんじりエディターと神戸麻雀ガールのご結婚奉祝麻雀大会が開催された。
甲南麻雀連盟は発足以来15ヶ月の間に会員間で二組のカップルを送り出したことになる。
これは驚異的なマッチメイキング確率といわねばならぬ。
麻雀が人間のエロス的アクティヴィティを高めるという説に私は与しない。
むしろ麻雀の打牌の一手一手を通じてその人となりがはしなくも露呈するという事実が与って大きいのであろう。
とりわけ、負け方のうちにその人の人間的度量はあらわに示される。
先般申し上げたように、麻雀とは「自由と宿命」のゲームである。
自摸は宿命であり、打牌は自由である。
そして、麻雀において宿命は確率的にはほとんどつねに私たちを「敗者」への道へと誘う。
雀神さまが打ち手に微笑む確率は2割5分。
つまり、麻雀をしているかぎり、確率的に人生の4分の3は敗者として過ごさねばならないのである。
昨年の最高勝率の私でさえ3割4分。
ということは卓を囲んでいる時間の66%、私は敗者であったということである。
勝率1割台の雀士だっている。
彼らの場合、ほとんど「負けるために麻雀をやっている」と言って過言ではない。
それでも起家が最初の骰子をふるとき、勝率ゼロの雀士を含めて全員の前に未来は薔薇色に輝いている。
すべての敗北を次の勝利のための長い「前奏曲」にすぎぬと信じることのできる人間だけが真の「甲南雀士」と呼ぶに値するのである。
Look for the silver lining.
この二人の甲南雀士の前途に雀神さまからゆたかなお恵みがありますように。
会からお二人には「寄せ書き付き特製麻雀牌」と「リーデルのシャンペングラス・ペアセット」と花束が贈られ、ホリノ社長と会長がシャンペンを差し入れ、山本画伯がひさしぶりに料理人としての本領を発揮せられてイタリアンの数々をご披露くださった。
ドクターは「サイドカー」と題する祝祭詩を草せられ、これをラガーマンがブルージーに朗読(さらにドクターのマラカス伴奏付き)。
「筋もかんとだきもあるかい」で全員痙攣的に爆笑。
みなさん、ありがとう。
例会の戦績については、ラガーマンの「立直一発自摸ドラ10」に全員度肝を抜かれたせいで、ほかの記憶が飛んでしまった。
会長は今回もトップなしで、15戦3勝、ついに2割にまで勝率を下げてしまった。それでも勝ち点は累計プラスに踏みとどまっていることから、いかに苦境に耐えてシュアな麻雀を打っているかはご推察いただけるであろう。
現在の勝率一位はラガーマンとI田先生(!)の4割。
しかし戦いはまだ11ヶ月続く。

月曜は東京出張。
やはり東京へ行く山本画伯と待ち合わせして、新幹線に乗り、二時間半しゃべり続ける。
はじめて知ったことがある。
それは私たちが急速に活動的になった時期がぴたりと同期していたということである。
私は70年代なかばから1990年までかなり長い非活動期にあった(レヴィナスを読んで、合気道に行くというルーティンを私は 15 年間繰り返していた。もちろんそれは後から思えば実に幸福な修業時代であったのだが、リアルタイムでは「判で押したように何も起こらない日々」として生きられていたのである)。
それが90年の関西移転をきっかけにして急速に活動的になる。
聞けば山本くんも同時期に作家としての活動期に突入したそうである。
私が東京から芦屋に引っ越してきて、山本くんに25年ぶりに電話をかけたとき、彼もまた(それまでのトイレ、フロなしの下宿を脱出して)巨大なキャンパスに立ち向かえる武庫之荘のアトリエに引っ越したところだった。
画伯の飛躍のきっかけとなった「ライカの展覧会」へ至る一連の大作を描き始めたちょうどそのときに私は画伯のアトリエの駅三つ隣に、はるばる東京から「遊びましょ」と叫びつつ登場したのである。
東京でのお仕事はPHPの雑誌『VOICE』の仕事で、脳科学者の池谷裕二東大薬学部講師との対談である。
これはたいへん楽しみな対談であった。
池谷さんの『進化しすぎた脳』はずいぶん授業で引用させていただいたことがある。
近著『脳は何かと言い訳する』は最新の学術的発見をふまえた、これまたまことにスリリングな書物であった。
池谷さんは1970年、私が大学に入った年のお生まれである。
若い理系の学者と話をするのが私は大好きである。
気錬会の諸君も理系の方が多い。
彼らの特徴は「自分が何を専門的に研究しているかを非専門家に説明するのがうまい」ということである。
彼らは専門用語を使ってはとても素人には理解させられそうもないことをメタフォリカルな表現で説明する能力に長けている。
この能力は人文社会学系の若手研究者にはなかなか見られない。
人文社会学系の若い研究者は素人に自分の専門を説明するときに、いかにも面倒そうに、「あのですね、まあ噛み砕いて言えば・・・」と相手を見下す視線になり、言い終わると(「まあどうせわかりっこないでしょうけどね」という意味を込めて)「ふん」と軽く鼻を鳴らす。
それに対して、理系の諸君は素人相手のときにも(ときにこそ)、自分の研究がどういうものであるかを理解させようとかなりむきになる。
理由の一つは理系の研究はしばしば巨額の外部資金を要するせいで、専門のことをよくわかっていない素人スポンサーに資金導入を決意させる適切なプレゼンテーションをしなければならないからである。
文系の研究にはそれほどお金がかからない。
だから、(私もそうだけど)、自分の研究の社会的有用性や意義について説明する必要があまりない。
というか自分の研究は「社会的有用性のような世俗的なものとは関係ないんだぞ」というあたりにむしろ力点が置かれたりする。
この「浮世離れ」にはもちろんよいところもある。
けれど、今のところは文系学者のプレゼンテーション能力の低下と自分の研究の歴史的・社会的意味について吟味する習慣の欠如という否定的側面ばかりが目に付くのである。
閑話休題。
池谷さんの話はたいへんにわかりやすく、かつスリリングであった。
あまりにスリリングだったので、私は途中で動悸が激しくなったほどである。
わかりやすいのは、話を単純化しているということではない(私の理解力がすぐれているということではさらにない)。
そうではなくて、脳科学がどうして「今のようなこと」になったのか、これから「どういうふう」になるのかという「科学史的」なひろびろとした展望の中で自身の研究を位置づけて語る習慣を池谷さんが持っているからである。
予定時間よりも10分早く二人とも対談場所についてしまったので、即対談が始まる。
それから1時間40分にわたって、二人で一瞬の隙もなく、しゃべりにしゃべり続ける。
これだけリアクションのシャープなコミュニケーションを経験したのはひさしぶりのことである。
私がこのところずっと考えていた時間と知性と身体技法に関するほとんどすべての問題について池谷さんは驚くべき仮説で応じてくれた。
私がこだわっていた論件はそのほとんどが「ミラーニューロン」と「線条体」の機能にかかわる問題だったのである。
雑誌では私たちの話したうちのごく一部しか採録することができないのが残念である。
今日聞いた中でいちばん面白かった話を一つだけ紹介する。

「ミラーニューロン」というのはご存じのとおり相手が何をしているのかを見て反応する神経細胞のことである。
誰かがアイスクリームを食べているときに、それを見ている私の脳内で、「アイスクリームを食べているとき」に活動する神経細胞がまるで鏡に映したように活動する。
だから、人のしぐさを見ているだけで、その人の内部で起きていることが想像的に追体験(というかリアルタイムで体験)できる。
そういう能力が生物には備わっている。
チンパンジーにもミラーニューロンがあるから、人のしぐさを見るだけで人間の道具を使いこなし、ボートを漕いだりすることもできる。
このニューロンはコミュニケーションや学習や共同体の形成にとって決定的な重要性をもつのである。
だからコミュニケーション能力の低い人、「空気が読めないやつ」、他者との共感能力の低い人はこのミラーニューロンがきちんと機能していない。
学習障害や自閉症がミラーニューロンの機能と深い関係があることも知られているそうである。
先日、多田先生から「師匠がくしゃみをしかけたら弟子は同時にくしゃみをするくらいでなければならない」というお話をうかがった。
他者の体感に同期することは合気道の重要な技法的課題だけれど、これはミラーニューロンの活性化というふうに言い換えることもできる。
それだけでもびっくりなのだが、一番驚いたのは(これはまだあまり知られていないことだそうだけれど)ミラーニューロンを活性化する薬が発明されたという話である。
それを人間に注入してみたら、どうなったか。
他者との共感能力が異常に高まって「千里眼」になった・・・とふつうなら想像するが、そうではなかった。
ミラーニューロンが活性化した人は全員が同じ幻覚を見たのである。
それは「幽体離脱」である。
自分を天井から自分が見下ろしている。
つまり他者への共感度が高まりすぎたせいで、「自分が他者であっても自己同一性が揺るがない状態」になってしまったのである。
この幽体離脱はすべての人間が経験することなのだそうである。
ただせいぜい生涯に一度か二度(多くは臨死体験において)であるので、科学研究の対象にはならない(幽体離脱が起きるまで何十年も被験者を観察していなければならないから)。
Je suis un autre「私は他者である」と書いたのは見者ランボーだが、この一文から推して、アルチュール・ランボーの脳内ではミラーニューロンがたいへん活動的であったことが推察されるのである。
論理的に考えると、「自分が他者であっても自己同一性が揺るがない」ときの自己同一性というのは、もう「私がひとりでいるときの自己同一性」とはあきらかに別物である。
それは私と他者をともに含んだ「複素的構造体=私たち」の自己同一性である。
ご案内のとおり、主体=他者の対面的状況において、この「複素的構造体」をどうやって立ち上げ、どうやって操作するか、ということが久しく私自身の哲学的=武術的課題(「レヴィナス=合気道問題」)であった。
レヴィナス他者論と「合気する」技法のあいだを架橋する手がかりがミラーニューロンのうちにあるのではないか・・・
そう考えたら、なんだかわくわくしてきたのである。
「線条体」の話は人間の時間意識と未来予測的=合目的的運動性にかかわるので、もっと複雑にしてスリリングな話題なのであるが、それは紙面を徴していただくことにしよう(長くなるからね)。
それにしても知的興奮の1時間半であった。
池谷さん、また対談してくださいね。
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