朝の入試委員会に出ているうちにぞくぞく寒気がしてきた。
おお、風邪の引き始めだ。
午後ずっと会議が続いて、夜は教員送別会である。このまま夜の9時までとてももたない。
最初の委員会が終わったところで学長室と文学部事務室に「午後からの会議は休みます」とお届けして、タクシーを呼んで帰宅。
パジャマに着替えて午後2時にベッドに入る。
そのまま眠り続ける。
翌日の午前4時にあまりの空腹に目覚める。
夜明け前にご飯を炊いて、味噌汁を作って納豆と生卵でぱくぱく食べる。
腹一杯になったらまた眠気が襲ってきたので、ふたたび眠る。
10時頃よろよろ起き出したら頭痛も微熱もすっかり消えていた。
疲れていたのである。
日経から電話がかかってきて、アポなし電話取材。
どうして若者たちは働く意欲がなくなったのでしょうかというお訊ねである。
それは彼ら彼女らが「自分のために働く」からであるとお答えする。
労働はほんらい「贈りもの」である。
すでに受けとった「贈りもの」に対する反対給付の債務履行なのである。
労働はその初発のあり方において l'un pour l'autre なのである。
pour というフランス語の前置詞にはいろいろな意味がある。
「・・・のために」「・・・の代わりに」「・・・に向けて」「・・・宛の」「・・・だったことに対して」「・・・に賛成して」「・・・として」
l'un は英語で言えば the one. l'autre は the other である。
私はこの l'autre を「なんだかよくわからないけれど、私より時間的に先行しているもの」と解く。
「主体とは『なんだかよくわからないけれど、私より時間的に先行しているもの』のために/の代わりに/に対して/の返礼として/に賛成して、はじめて存立するものである」というのがおそらくレヴィナス老師の言わんとしたことであろう。
それは l'autre(他者)が事実上主体に先行したということではない。
l'un pour l'autre とは signification であるとも老師はおっしゃっているからである。
記号作用というのは「aはbという意味です」という代理表象の関係のことである。
記号はものそれ自体ではない。それは代理表象である。
記号は「それはそれが指し示すものそれ自体ではない」ということによって機能する。
記号は「代理人」である。
代理人は本人ではない。
「本人」がまさにそこにいないという当の事実が「代理人」の存在理由を基礎づけ、同時に彼を「代理人」に指名した「本人」がどこかにいるという信憑を基礎づけてもいる。
つまり、「代理人」にとっては「本人」がどこかにいることがその存在根拠であり、一方「本人」の存在根拠はその「代理人」がここに出頭しているという事実によって支えられているのである。
主体と他者の関係もそれと同じである。
主体は他者の「記号」である。
レヴィナス老師が「他者は主体と決して境界線を共有することがない。それは絶対的に他なるものなのだ」と書くとき、ほとんどの人は空間的に遠い存在者を思い浮かべる。
けれども、もうすこしわかりやすい比喩を使えばそれは「象」という記号と「象」そのものの関係に似ているのである。
「象」という日本語は、あの巨大な動物とどこにおいても接していない。
両者のあいだに共有されている境界線はない。
そこにはいかなる実定的な関係もない。
「記号である象」にとって「実体としての象」は理解も共感も絶したものである(「記号である象」が理解できるのは「記号としてのライオン」とか「記号としてのサイ」のような同類だけである)
けれども、「実体としての象」が先行していなければ「記号としての象」は生まれてくるはずのないものである。
とはいえ、ソシュールが教えるように、「象」という獣が示差的に分節されるは「象」という記号の発生と同時的である。
記号がなければ、概念はない。
他者と主体の関係もそうなのである。
主体と他者の関係に構造的にいちばん近いのは「シニフィアン」と「シニフィエ」の関係なのである。
他者が主体の出現を要請し、主体がなければ他者を「他者」として表象するものはいない。
この相互に基礎づける関係はエロス的関係でも同じである。
私の官能は他者の官能によって賦活される。
「官能が目指しているのは他者ではなく、他者の官能である。官能とは官能についての官能、他者の愛に対する愛なのである。」(『全体性と無限』)
私たちはエロス的関係にあって、ウロボロスの蛇に似た不思議な循環構造のうちに絡め取られている。
というのは、愛し合う人々が官能的に志向しているのはそれぞれの相手の官能であり、その相手の官能を賦活しているのはおのれ自身の官能だからである。
官能において、主体の根拠は愛するもののうちにも愛されるもののうちにもない。
官能において私の主体性を根拠づけているのは、私が「愛されている」という受動的事況だからである。
「主体はその自己同一性をおのれの権能を自ら行使することによってではなく、愛されているという受動性から引き出している。」
労働においてもまた労働主体は「その自己同一性をおのれの権能を自ら行使することによってではなく、そのつどすでに誰かの労働の成果を享受している受動性から引き出している」のである。
労働においてもまた主体性は l'un pour l'autre というかたちでしか存立しない。
けれども、そのことに気づいている人はまことに少ない。
学生たちは就職活動に全力を注ぐ。
いかに自分の能力や適性を採用者に効果的にショウオフするかに懸命になる。
そこには「自分のため」という動機しかない。
だから、就活が終わり、四月に職場に立ったとき、自分には「労働するモチベーション」がないということに気づいて若者たちは愕然とするのである。
「求職するモチベーション」と「労働するモチベーション」は別のものである。
「求職活動」はせいぜい1年間の有限の活動であり、そのとき参照するのは「自分と同学齢の競争相手」の就職状況だけである。
けれど、「労働活動」は二十歳すぎから六十過ぎまで四十年以上続く。
その活動の成否や意味や価値についてあなたが「参照」できるような「ほかの条件がすべて同じであるような競争相手」はもう存在しない。
最初の数年は「あの人よりは自分の方が高給だ」とか「自分の方がプレスティージの高い仕事をしている」という比較意識がモチベーションを維持するかもしれないが、そのようなものはいずれどこかで消えてしまう。
そのあとの長い時間は自分自身で自分の労働に意味を与えなければならない。
けれども、「自分のために働く」人間にはそれができない。
私たちの労働の意味は「私たちの労働成果を享受している他者が存在する」という事実からしか引き出すことができないからである。
というような話をすればよかったが、違う話をしてしまう。
ともあれようやく頭より先に舌が動くようになったのは復調の兆しである。
午から合気道。
家にもどって味噌汁の残りに卵を落として「ずずず」と啜る。
腹一杯になったら眠気が襲ってきたので、また眠る。
夕方起き出して、カレンダーを見ると、しなければいけないことが死ぬほどたまっている。
中央公論の原稿を書き飛ばす。
メール20通くらいに返事を書く。
仕事の依頼を全部断る。
もう、本気で仕事はしないと決意する。
私はこれまで何度も「もう仕事しない宣言」をしているが、そのたびにいつのまにか気がつくとまた馬車馬のように働いていた。
そういうのはもうやめにしたい。
朝起きて「ああ、今日も何もすることがないなあ・・・」とぼんやり空の雲を見上げて、朝風の中を散歩し、ふと足を止めて道ばたのレンゲを見つめるような人生を過ごしたい。
ほんとに。
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(2007-02-11 09:33)