大学のブランド力とは?

2007-02-16 vendredi

朝からばりばりと原稿書き。
『中央公論』の「日本人の社会と心理を読み解くための20冊」と『大学ランキング』の「大学のブランド力とは何か?」を書き上げて送稿。
「日本の社会と心理を知るための20冊」に私が挙げたのは、「日本とはこれこれこういう社会であり、日本人はこういう心理構造の生き物である」ということを客観的=中立的立場(などというものがありうるのだろうか)から論じたものではない。
「日本人って、何なんだろう・・・」ということを自身の基礎づけの問題としてとらえた人々、その人自身が「日本人らしさ」の原点として帰趨的に参照される人々の本と日本人論を語る人が読まずにはすませることのできない不可欠のレフェランスあわせて20冊。

私が選んだのは、成島柳北『柳橋新誌』、勝小吉『夢酔独言』、勝海舟『氷川清話』、中江兆民『兆民先生伝』、森鴎外『寒山拾得』、夏目漱石『吾輩は猫である』、永井荷風『断腸亭日乗』、子母澤寛『新撰組始末記』、司馬遼太郎『竜馬がゆく』、内田百閒『まあだかい』、加藤周一『羊の歌』、吉田満『戦艦大和ノ最期』、伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』、川島武宜『日本人の法意識』、網野善彦『異形の王権』、宮本常一『忘れられた日本人』、岸田秀『ものぐさ精神分析』、加藤典洋『敗戦後論』、三浦雅士『青春の終焉』、関川夏央・谷口ジロー『「坊ちゃん」の時代』。

どの本がどのカテゴリーであるかは各自でお考えください。

「大学のブランド力」についての論考は高校生用なので、ボードリヤールの象徴価値論を噛み砕いてご説明する。
ご案内のとおり、「象徴価値=ブランド力のある商品」とはそれを所有する人間の所属する社会階層を記号的に指示するものである。
ただし、この記号性というのはいささか複雑な構造を持っており、所属階層をあまりに露骨に示す商品は「ブランド力がある」とは言われない。
例えば、「金の鯱を飾った天守閣のある家」に住んでいる人は金持ちであることはわかるけれど、その家には「ブランド力がある」とは言わない。
定期預金の残高数字や高貴の血を引く家系図にも「ブランド力」はない。
所属階層を直接的に指示する商品にはブランド力がないのである。
例えば、着る服によって「金がある」ことを示すもっとも直接的な方法は「値札を付けたまま服を着る」ことであるけれど、そういうことをする人を「ブランドにうるさい人」とは言われない。
「ブランド力」というのは一見しただけではよくわからないけれど、よく目を凝らすとわかるものについてのみ言われるのである。
「ほんとうにいいもの」というのは近づいて、触れてみて、身につけて、なじんで、はじめて作り手の気配りやこだわりがわかる。
不注意な人の目には見えず、それゆえその「良さ」に気づいた人が「自分にはその価値がわかるだけの鑑定眼がある」ことをひそかに誇りに思えること、実はそれこそがブランド力の条件なのである。
ブランド力というのは商品自体に内在するものではなく、それを解読する人の参与があってはじめて成立する。
ジェームズ・ボンドがドクター・ノオのディナーのテーブルでシャンペンのボトルを一瞥して、「どうせドン・ペリニヨンを出すなら57年にしてほしかったな・・・」とつぶやく場面がある(相手はゴールドフィンガーだったかしら・・・)。
ここではブランドの価値を解読できると思っている人(ドクター・ノオだかゴールドフィンガーだかその手のワルモノ)と、その解読力が「まだまだ」と判定する人(ボンド)と、それを指摘されて「ぐ、ぐやじい」と思ったけれど顔色を変えない人(ワルモノ)と顔色を変えないのはよほど悔しかったんだろうなあと内心せせら笑っている人(ボンド)の間の心理的葛藤が二秒ほどのうちに交錯する。
そして、ボンドがこの心理戦で勝利したことでドクター・ノオはボンド憎しの一念からその殺害を急ぎ、結果的に軍事的敗北を呼び込んでしまう・・・
かようにブランド力は奥が深いのである。
ここからおわかりのように、ブランド力とは「ブランド力が何かを知っていると想定された主体」に対して、「ブランド力って何だかよくわかんないけど、そういうものがどうやらこの世にはあるらしいと思っている主体」の間の「情報格差」として存在する。
というか、「格差の感覚」としてしか存在しないのである。
だから、大学のブランド力というのは、「金の鯱天守閣」的なハコモノにはもちろん存在しない。
誇示的なものは、誇示的であるという当の理由によってブランド力を失うからである。
大学のブランド力は、大学人が「ブランド力とは何かを知っていると想定されている主体」であり、学生たちが「大学のブランド力って何だかよくわかんないけど、そういうものがどうやらこの世にはあるらしいと思っている」という非対称的関係である場合にのみ存立する。
だから、「アピーリングなブランド」というようなものは端から形容矛盾なのである。
「この大学のブランド力って何ですか?」と問う学生に対して、「ふふふ、それはキミが自分で探し出すものだよ。さて、キミにそれを見つけるだけの眼力があるかな?」と言い残してすたすた立ち去ってしまう大学こそがブランド力のある大学(だと誤解される大学)なのである。
もちろん高校生相手にこんなネタバラシをするわけにはゆかないので、ぜんぜん違う話を書いた。

養老先生との対談本のデータ校正の締め切りであるが、まったくやっていないので、あと3週間延ばしてくださいと新潮社のアダチさんに土下座をして詫びを入れる。
私が怠慢であるとかそういうことではない。
私が過去一ヶ月どれくらいの量の文字を書き、どれほどの量の活字を読み、そのせいで近視の度がどれほど進み、背中や肩がどれほどきしむような捻れるような苦痛を感じているかはおそらく諸君の想像を絶しているであろう。
しかし、その割には麻雀をしたり、映画を見たり、歌舞伎や能に行ったり、宴会したり、ブログを更新したりしている暇があるじゃないかと思われる方もあるやもしれぬ。
だが、それらのわずかな愉楽を奪い去られた私は「ガレー船の奴隷」とどこが違うというのであろうか。

講談社からお知らせが来て、『下流志向』は5刷3万部追加で、累計6万部となる。
「こ、これはもしかすると、もしかするかもしれませんよ」とオカモトさんの声が心なしか震えている。
もしかするとどうなるのであろうか。
朝日新聞の中条省平さんの書評と『週刊現代』の高橋源一郎さんの書評のおかげで売り上げがぐんと増えたのである。
みなさんどうもありがとうございます。

大学に合気道の稽古に行くと、舞踊専攻の島崎徹先生とすれ違う。
舞踊専攻の第一期生の発表会が水曜日から始まっているそうである。
「すごいです。爆発してますよ。ウチダ先生もぜひ来てください」と島崎先生があの表現力豊かな表情で訴えかけるので、「はい」と即答。
島崎徹先生は「バランシン/フォーサイス/シマザキ」と並び称せられる偉大なコレオグラファーであり、ときどきキャンパスで遠くの方から手を振ってきて「ウチダ先生、本読みました! あなたの本はお・も・し・ろ・い!」と全身で感想を言って下さるありがたい同僚である。

合気道の稽古のあと、大阪能楽会館へ。
着いたら能が終わったところで、狂言と『邯鄲』『敦盛』の舞囃子二番を見て帰る。
家に戻ってから寝ころんでブルース・ウィリスの『16ブロック』を観る。
なんだか既視感がある。
あ、これ『ダイハード4』の予告編なんだ。
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