道頓堀で芝居見物

2007-01-24 mercredi

忙中閑あり。
「魔性の女・ほんとはいいやつ」本願寺のフジモトくんにチケットを取ってもらったので(それにしても長いミドルネームだな)道頓堀の松竹座へ歌舞伎を見に行く。
團十郎(弁慶)、藤十郎(判官)、海老蔵(富樫)の『勧進帳』と、藤十郎(忠兵衛)と秀太郎(梅川)と我當(八右衛門)の『封印切』と、翫雀・扇雀兄弟の『毛谷村』。
私たちの世代の人間にとって「扇雀」と言えば、今の藤十郎のことであり、鴈治郎と言えば『浮草』と『小早川家の秋』の鴈治郎のことである。
むかし「扇雀飴」という飴があり(まだあるのかしら)、若き中村扇雀がにっこり笑って宣伝していた(食べたことないけど)。
こういうふうに名前がどんどん変わってゆくというのはよい習慣であると思う。
大きな名跡を継ぐと、そのあと芸が変わる。というか芸が変わらないと世間が許さない。
それだけでなく、「扇雀」と言っても誰のことを言っているのか分からないというあの名称上の混乱をどうも観客たちは楽しんでいるような気がする。
というのは、その名跡をどこまで遡って思い出せるか、ということが観客が舞台から汲み出す快楽と相関しているからである。
「海老蔵」と聞いて、私がまず思い出すのは先々代(十一代目市川團十郎)の九代目海老蔵の顔である。それから先代の海老蔵の顔を思い出して、当代の海老蔵にたどりつく。
もちろん名跡といっしょに芸風も伝承されるから、長く舞台を見ている観客は今目の前にいる役者の周りに先代先々代のオーラがかかって、それらが輻輳した「交響楽」のようなものを聴き取っているはずである。
『成駒屋!』という大向こうからの声もよく考えてみると屋号であるから、成駒屋に帰属する古今すべての役者を含めての包括的名称である(ジョン・レノンに向かって「よ! ビートルズ!」と呼びかけているようなものである・・・違うかな)。
カテゴリー・ミステイクのようだが、これはやはり、個人名ではなく、一種の団体名で呼びかけることによって、観客が役者にある種の「敬意」と「保護」の「贈りもの」をしていると考えてよろしいのであろう。
昨日は屋号を間違えて大きな声を掛けているおじさんが横にいて、フジモトくんは「屋号がちがうぞ〜」と低い声でつぶやいていた。
『勧進帳』を見るのは実ははじめてである。
能『安宅』と比べると、「歌舞伎的なもの」とは何か、ということがなんとなくうかがい知れる。
海老蔵の富樫が名宣をあげるときの詞章は『安宅』のままである。「かように候者は加賀の国富樫の何某にて候」。
囃子も似たような感じで始まるのだが、そこに三味線が入る。
地謡は『旅の衣は篠懸の露けき袖やしをるらん』と謡うのだけれど、謡曲ではなく、もっと甲高い声である。
老松は三本描いてある。幕はあるけれど橋掛かりはなくて花道から役者は登場し、切戸口も切ってある。
勧進帳を読み上げたり、山伏の由来を尋ねたりというあたりは『安宅』と同じである。
どこが違うのかというと・・・能と歌舞伎の比較をしても仕方がないけれど、私が思うには、歌舞伎はその起源において、役者一人で「シテとワキと狂言」(言い換えると、亡霊と聖職者と道化)を演じられなければならないという条件が課せられていたのではないかと思う。
だから能楽のシテ方を評価する場合と歌舞伎役者を評価する場合では度量衡が違う。
歌舞伎役者はその芸域の広さ、演じることのできる人間の多様性やリアリティが評価の基準となり、シテ方の場合はいかに生身の人間でありながら「この世ならざるもの」を演じてみせるか、その深度が問われる。
たぶんそういうことではないかと思う。
どちらがよいというものではないが、能楽が歌舞伎のようなポピュラリティを獲得しえない理由をもう少し考えてみる必要がある。
『勧進帳』は歌舞伎と能がまだ未分化であった時期の歌舞伎だと思うが、『封印切』になると、もう松竹新喜劇や米朝の『百年目』の世界とほとんど地続きである。
藤十郎・我當の「まったり感」がたまらないです。
フジモトさん、また連れてってくださいね。
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