「不二家」化する日本

2007-01-16 mardi

菓子メーカー大手の不二家が消費期限・賞味期限の切れた材料を使って洋菓子を製造していた事件は、当初現場のパート作業員の個人責任とされていたが、今朝の新聞報道によると、埼玉工場では7年前から工場長まで含めた工場全体の組織ぐるみで期限切れ原材料の使用や消費期限の付け替えが行われていたことが内部監査で判明した。また食品衛生法基準の60倍の細菌が検出されていた洋菓子についても、工場長は回収指示を出さず、出荷されていた。
調査結果を承けて、大手スーパーは不二家製品の撤去を開始、すでに洋菓子販売は全面休止しており、全国の工場での調査結果でさらに問題が出てきた場合、すでに業績悪化している経営にとって致命傷となる可能性が高い。
この事件は現代日本企業の知的退廃を象徴する出来事だと私は思う。
「知的」退廃というところにご注意願いたい。
倫理観の欠如とかコンプライアンスの不徹底とかマニュアル運用の不備とかいろいろ言われているけれど、そんな上等なレベルの話ではない。
私たちがこの一事から得ることのできる最も価値の高い情報は、日本の経営者のかなりの人々に「倫理的に」問題があるということではなく、「知的に」問題がある、ということである。
たいへんに頭が悪い、ということである。
というのは、どう考えても、消費期限の切れた牛乳や卵を使うことによって浮くコストと、食品衛生法違反で摘発されたり、食中毒を出して営業停止になったり、その果てに倒産する(不二家はたぶん倒産するであろう)リスクを「はかりにかければ」どうふるまうべきかは自明だからである。
この自明なことが「組織ぐるみ」で理解されていなかったということから私たちが推論できるのは、この会社の社員たちは「同業他社との競合上の利益」と「会社そのものの消失がもたらす損失」についての引き算ができなかったということである。
私はこれを現代人(特に男性)に典型的な症状だと思う。
どうしてそう思うのか。
それについては、『少年育成』という本(大阪少年補導協会という渋い団体が出している冊子である)に「父の子育て」という文章に思うところを書いたので、それを採録しよう。

母親の子育てと父親の子育ては「モード」が違う。
母親は子どもを「弱者」と想定している。それは実際に自分の胎内で子どもを育んできた生理的実感がそうさせるのである。「子どもは弱い。」それが母親の育児活動全体に伏流している基調音である。
その結果、母親は「弱くても生き延びることができる」生存戦略を子どものために用意する。具体的には「群れとともにある」ことである。
サバンナの草食動物を見ればわかる通り、弱い動物は群生する。群れがライオンに襲われたときに、十頭の群れであれば、ライオンに捕食される確率は十分の一であるが、百頭の群れに紛れ込んでいれば、ライオンに食べられる不幸な一頭になる確率は百分の一になる。
だから、母親は自分のこどもに「ふつう」になることを強く求める。個性の発現よりはむしろ個性の抑止を求める。できるだけ大勢に逆らわず、群れの中で「悪目立ち」しない個体にとどまることを求める。それは「自分の子どもは弱い」という生物学的確信から導かれる育児方針である。
私はこの母親の育児戦略は太古的な起源を持つものだろうと思う。自分たちの穏やかな生活はいつ「超越的に邪悪なもの」の闖入によって崩壊するか知れないという「システム・クラッシュ」への暗鬱な予感が母親の育児戦略のうちには漂っている。私はこれを「荒天型育児」と呼びたいと思う。
これに対して、父親の育児戦略は「晴天モデル」である。
父親ももちろん自分の子どもが「弱い」という起点においては母親と共通するが、そのあとが違う。父親は子どもを「群れの中での相対的強者」たらしめることを育児の目的とする傾向がある。子ども同士の競争で勝ち残ること。それが父親の子育ての目標である。
父親たちは「子どもたちの世界の外部」というものをとりあえず想定していない。「超越的に邪悪なもの」がこの世界に闖入してきて、子どもたちを喰い殺す可能性を想定していない。ゲームはあくまで「アリーナ」の中でアスリート同士によって競われるものであって、競技場そのものが「ゴジラ」に踏みつぶされるときにどうやって生き延びるか、というような問いは子育てする父親の脳裏には去来しない。
私はこの二つの育児戦略は相補的なものであって、どちらかを選べというものではないと考えている。どちらも子育てには必要なものである。
とりあえず私たちはシステムの中で同類たちとの生き残り競争に参加せねばならず、それと同時にラットレースがその中で行われているシステムそのもののクラッシュに対する備えもしておかなければならない。
国際関係論では、このラットレースで負けることを「リスク」、レースの行われるアリーナそのものが消失するような規模の破局に際会することを「デインジャー」と呼ぶ。予測可能・考量可能な危険と、予測不能・考量不能の危険。この二種類の危険を私たちは生き延びる上で勘定に入れておかなければならない。
育児とは尽きるところこの二種類のリスクヘッジを適切に行って子どもを生き延びさせることである。
現代日本の育児戦略に異常が生じていることは、どなたも分かっているはずであるが、どこに異常があるのかはよく見えない。これは父親主導の「晴天型モデル」がドミナントな育児戦略となって、母親主導の「荒天型モデル」が発言力を失ってきたことの結果だと私は見ている。つまり、「システム内競争」に育児リソースの過半が注がれ、「システム・クラッシュのときに生き残るための資質の開発」にはほとんどリソースが割かれないということである。
先ほども書いたように、父親は子どもを「相対的強者」たらしめようとする。それは言い換えると、誰でも努力さえすれば競争における相対的優位に立てると父親が信じているということである。受験や、就職や、配偶者の獲得や、出世といった無数の競争に私たちはさらされているが、私たちがこのような競争に熱中できるのは、「日本というシステム」そのものは当面安定的に継続してゆくだろうということについての信憑が成り立っているからである。私はこの楽観を「晴天型モデル」と言っているのである。

まだまだ説教は続くのであるが、とりあえずこのへんにしておこう。
お読みになった方はおわかりであろうが、不二家社員の頭にあったのは「同業他社との競合」だけであり、そのラットレースでの相対的優位だけであった。
そのレースでの競争に夢中になっているうちに、レース場の外にも世界があり、レース場の外にはもう一つ次数の高いルール(たとえば食品衛生法)が存在するということを忘れてしまったのである。
だが、不二家の失敗を笑う資格は日本人にはない。
私たちはみんな似たり寄ったりだからである。
大学は「大学淘汰」に夢中になって、そもそも学校教育が何のためのものかという根本の問いを忘れている。
「不二家」化する大学がいずれ続々と出てくるだろう。
政治家だって似たようなものである。
これについては先の書き物の続きを付け足しておこう。

「日本というシステム」がクラッシュするときに、私はそのカオスを生き延びていけるか? そのような破局的状況のときに生き延びる役に立つどのような資源を私は持っているか、あるいは開発しつつあるか? という問いを切実なものとして引き受けている子どもたちは今ほとんど存在しない。しかし、それは、戦後60年間の平和と繁栄のコストとして引き受けねばならないだろうと私は考えている。
絶えず国家システムの崩落や通貨制度の解体や隣人によるテロや略奪の可能性を勘定に入れて行動しなければならない国民はたしかにデインジャー対応能力は高まるだろうけれど、不幸な国民である。
私たちはそのようなデインジャーの可能性をほとんど考慮する必要がないまま半世紀以上を過ごしてきた。その意味では私たちは幸福な国民であると言わなければならない。だが、今、日本人がデインジャー対応能力の開発を組織的に怠り、おそらくシステム・クラッシュが訪れたときに生き延びられないほどに脆弱になってしまったのは、あまりにも長く続いたこの平和と繁栄の代価である。
勇ましい核武装論や九条改定論が出てくるのは、この平和と繁栄に対する苛立ちのひとつのかたちだろうと私は思っている。「ちょっと戦争でもしてみるか」という気分に一部の男たちはなっている。この「ちょっと戦争でも・・・」という気楽なマインドこそ「平和ボケ」のもっとも重篤な病態なのである。このようなことを言い募っている人々はこの世には「デインジャー」というものがあるということをたぶんもう忘れている。戦争はコントロール可能で、愛国心の発露と市場の賑わいと税収の増大をもたらす「イベント」くらいにしか彼らは考えていない。
いつの世でも母親たちが戦争に反対し、父親たちがあいまいな態度を示すのは、戦争で真っ先に死ぬのが自分の子どもであるということを母親たちはほとんど確信しているが、戦争があっても自分と自分の家族だけは死なず、自分の住む街だけは被害をこうむらないと父親たちが何の根拠もなしに思い込んでいるからである。

不二家の没落を笑っているうちに、不二家をも含めた日本的システム全体が「不二家」だったということに私たちは遠からず思い知らされるであろう。

と書いて投稿してから、日課の「おともだちのブログ日記めぐり」で最初に開いたヒラカワくんのブログに私が今日書いたこととほとんど同じことが(違う主題をめぐってであったけれど)書いてあったのでびっくり。
わお。
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