心療内科学会にて

2006-12-03 dimanche

日本心療内科学会でシンポジウム「現代人が心身医療に求めるものは」に出席。
先週は日本ユダヤ学会、来週はアメリカ文学会関西支部と、支離滅裂な学会出席日程である。
シンポジウムのお相手は近大堺病院の小山敦子先生と慶應大学産業研究所所長の清水雅彦先生。司会は中井義勝、坪井康次というおふたりのこれも心療内科の専門医である。
会場にゆくとどういうわけか女学院の学生院生がぞろぞろいる。
これは心療内科学会会長の生野先生が本学の人間科学部の先生だからである。
彼女たちはボランティアで学会のお手伝いをしているのである。
「先生、どんな話をするんですか?」と屈託のない表情で訊いてくる。
そういわれてもね。
何も考えずに来たとも言えない。
じたばたしているうちに時間となる。
小山先生は診療の現場からきわめてリアルな問題提起をされる。
清水先生もさすが実学の方だから、心療内科と社会構造のリンケージについて辛口の提言をされる。
お二人のそれぞれに実効的提言を承けて、私はお気楽な哲学者として(おお、いつからそのような名乗りを)、人類学的大風呂敷を拡げさせていただくことにする。
こういうまじめな場所で、たいへんシリアスな聴衆を前にして、本気だかホラだか分からない大風呂敷を広げ出すと止まらなくなってしまうのは、私の宿業である。
発作的に思いついた本日の主題は「自我の縮小という病態がストレスを強化する」というものである。
「自我の縮小」あるいは「自我の純化」は我々の時代の病である。
自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、オレなりのこだわりっつうの?・・・そういった空語に私たちの時代は取り憑かれている。
これは市場経済が構造的に追求する消費単位と消費欲望の最小化の自動的帰結である。
消費単位の規模を「最小化」することをサプライヤーは要求する。
当たり前のことだが、消費単位が小さくなれば、消費単位の個数は増えるからである。
四人一家が消費単位であるばあいには家に一台テレビがあればすむが、四人がそれぞれに「私は自分の見たいものを見たい」といってプライベートテレビを要求すれば需要は四倍になる。
人間の頭数がそれほど増えないときは、消費単位を小さく切り分けて、個数を増やすのが早道である。
80年代のはじめバブル初期の消費文化の旗手だった糸井重里の最初の小説のタイトルは『家族解散』であった。
思えば、これこそが消費文化が消費単位の砂粒化を宣言した歴史的コピーであった。
家族解散は消費単位の爆発的増殖をもたらした。
解散した家族ひとりひとりはそれぞれに住居を求め、それぞれに鍋釜や冷蔵庫やクーラーや自動車を求めたからである。
「自立」はマーケットサイズを拡大する。
だから、80年代以降メディアは(自立するだけの社会的能力のないものたちにまで)家を出て一人で暮らすことを推奨したのである。
この時期に70年代に流行した「同棲」に対する社会的評価が著しく低下したことをみなさんもご記憶であろう。
理由はご賢察のとおり。「自立」していた男女に「同棲」されてしまうと市場規模が縮むからである。
そうやって日本人たちは、家族を破壊し、カップルを解体し、砂粒化した個が、(未来を担保にいれさえすればじゃんじゃん貸してくれる)借金を享楽的に蕩尽することをほとんど「国民の義務」でもあるかのように粛々と実践していったのである。
やがてバブル経済が破綻したあとも、個の砂粒化趨勢はとどまらず、それどころかグローバリゼーションの競争原理は国民たちを「自己決定・自己責任・自分探し」というさらなる消費単位の規模縮小へと追いやったのである。
「自我の縮小」「自我の純化」は市場が私たちに要求したものである。
買い手の自我の縮小を商品の売り手が要請するのは、自我が小さければ小さいほど、「こだわり」はトリヴィアルなものとなり、消費者の「こだわり」が瑣末化すればするほど、それは商品製造の工程を減らすことに結びつくからである。
例えば、「雨具」というものを商品として提供するとき、「蓑」や「番傘」や「防空頭巾」や「トレンチコート」を提供しなければならない場合と、布の色と模様だけの違う「傘」を揃えればいい場合では「雨具」メーカーの「雨具」製作のコストの間に千里の逕庭がある。
99%の工程が同一で、最後の仕上げの1%だけ工程の違う「ほとんど同じ商品」が「まったく違う商品」として認知されるという消費者サイドの「差異コンシャスネス」の高さは、生産者からすればこれほどありがたいものはない。
「自我の縮小」は生産者サイドからの強い要請にドライブされたのである。
「オレなりのこだわり」のある人間は、自分とよく似ている人間(端から見るとそっくりにしか見えない)との間の差異と共生不能をうるさく言い立てる。
それは「キミにそっくりな個体がいくらもいるよ」という指摘ほど彼のアイデンティティを脅かすものはないからである。
だから、「縮小する自我」にとって家族こそはまっさきに排除されなければならない他者となる。
それは生理学的組成も言葉づかいも価値観も身体運用も「そっくり」である家族の存在そのものが彼の唯一無二性を否定するからである。
だから、縮小する自我たちにとっては口うるさい配偶者も手間のかかる子どもも介護を要する親もおせっかいな隣人も口やかましい上司もしがみつてくる部下も、すべては「自己実現・自分らしさの発揮を阻む」他者である。
主観的には彼らが「自分とぜんぜん違う」からなのであるが、実際には彼らが「自分にそっくり」だからである。
限りなく自分に近いものを否定するところから始まる「縮小する自我」の自己同一性形成は思いがけない方向に突き進んでゆく。
というのは、「縮小する自我」にとっては、自分自身の凡庸さや、身体の不調や、容貌上の欠陥や、贅肉や、臓器の異常までも「自己実現を阻む」他者にカウントされるからである。
それは「自分の一部分」であり、それとなんとか折り合ってゆくしかないという考え方は彼には浮かばない。
彼の幻想的なセルフイメージになじまないすべての彼自身の属性は、「自分らしくないもの」として否定される。
彼が否定するのは自分自身の心身の「部分」だけではない。
ときには自分を「まるごと」否定することだって辞さない。
「縮小する自我」はどうも気分がイラつくぜ、というようなときには通りすがりの子どもを刺し殺したりする。
「むかつきの解消を求める今の私」は、それからあとの逮捕取り調べ裁判懲役・・・という一連の経験に耐えねばならない「未来の私」を「自我」にカウントしていないからそういうことができるのである。
彼は裁判では「あのとき僕の中にネズミオトコが入ってきて、『殺せ』と命じたのです。やったのはネズミオトコであって、僕じゃありません」というような遁辞をおそらく主観的には非常にリアルなものとして口にすることになるだろう。
どうして「僕」じゃない人間が犯した罪を「僕」が引き受けなくちゃいけないんだ、と彼は考えるだろう。
まったく理不尽な話だ。
こんなふうに自我は限りなく縮んでゆく。
社会から与えられる自分についての外部評価を承認できないもの中には、「諸君の評価は私の『自分らしさ』を満たしていない」というメッセージを発信するために、自殺するものさえいる。
ここではもう「私の存在」さえも「縮小する自我」の「自分らしい」メッセージの運搬具として道具的・記号的に利用可能されているのである。
「自我の縮小」「自我の純化」の最終的な形態は論理的には「自殺」ということになる。
というのも「自殺」こそは自己決定・自己責任の究極のかたちだからである。
誰も私に代わって自殺を決定したり、自殺を実行することはできない。
自殺する子どもたちの「遺書」にはしばしば自殺を通じて社会にある種のインパクトを与える希望が書き記されている(自分をいじめた級友に「罰」が下ること、自分を救えなかった教師や学校が社会的指弾を受けること)。
生きている自分より死んだ自分の方が「より自分らしい自分」であるというこの自己意識の転倒は「自我への執着」がもたらす、痛ましいけれども、論理的帰結なのである。
自我というのは他者とのかかわりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものであるという「常識」が私たちの時代には欠落している。
自殺する子どもたちは「常識」のない時代の犠牲者である。
だが、それが「常識」でなくなったのは、繰り返し言うが、もとはといえば市場の要請に私たちが嬉々として従ったせいなのである。
というような話(とはだいぶ違う話)をする。

へろへろになって家に戻り、下川先生のところにお稽古に行って、楽の残りの道順を稽古する。
二段の拍子をちゃんと覚えてきたので先生に「よくお稽古してきたね」とおほめ頂く。
「おいらはドラマー」ですからグルーヴはまかせておいてください。
しかし、この忙しい間を縫って、よく楽の稽古まで手が回るものである。
さらにへろへろになって帰宅。
かんきちくんからもらった長浜ラーメンを使って「麻婆豆腐麺豚骨味」というものを作って食す。
美味なり。
満腹したので、寝転がって『Good night and Good luck』を見る。
ジョージ・クルーニーの監督作品である。
クルーニーはおそらく先達としてクリント・イーストウッドを意識しているのであろう。
「洗練された映画」というものについての彼なりの回答である。
たいへんよい映画であるので、テレビ関係者にはぜひ見ていただきたい(見ている人はきわめて少ないだろうが)。
もし、日本にこれから「マッカーシー」が登場したときに、報道の自由を守るために身体を張ることのできるテレビマンがいったい何人いるだろうかと考えて、いささか暗い気持ちになる。
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