青山さんから「村上春樹の朝ご飯」についてエッセイを書いて、という仕事が回ってくる。
雑誌の編集者さんというのはいろいろなことを思いつくものである。
「ご飯」というのは人類学的にはたいへん重要なものであるということは先般より繰り返し申し上げている。
とくに身体的「同期」(シンクロニシティ)がたいせつなのである。
誰かとご飯を食べるということは、他者と身体的に同期するためのもっとも実効性のある方法の一つである。
音楽の演奏も、ダンスも、セックスもその点では変わらない。
私たちが「快楽」として選択するものはすべて「同期」というファクターを含んでいる。
スティーヴン・ストロガッツの『SYNC―なぜ自然はシンクロしたがるのか』によると、「ものごとを同期に向かわせる傾向は、原子から動物、あるいは人類から惑星にいたる広大な宇宙で、最も広範に見られる『動因』の一つである」。
長期的に同室にいる女性の友だちや同僚は月経周期が同期することが知られている。月の自転周期は、地球の潮汐作用の影響を絶えず受けることで、公転周期を調整してきた。だから、月は現在地球を回るのとまったく同じ周期で自転している(そのせいで地球からは「月のウサギ」模様しか見えない)。
こういう根源的な趨勢については「どうして?」というふうに問いを立てても無駄である。「どうしてものは同期するのか?」という問いの形式自体が、「問いと答えが同期すること」をめざしているからである。
それで村上春樹氏の朝ご飯であるが、これが実にあっと驚くほどにわかりやすい「同期」の比喩になっているのである。
村上春樹の全作品について青山さんが「朝ご飯」に関係のある頁を探し出してコピーしてもってきてくれたので(ご苦労さまでした)、私は村上文学における朝ご飯について網羅的なデータベースを手に入れることになった。
繙読してわかったことは、村上文学における主人公は朝ご飯を
(1)ひとりで食べる
(2)ふたり以上で食べる
かどちらかだということである。
まあ、当たり前だけどね。
そして、(1)の「ひとりで食べる」ときの「僕」は孤独である(当たり前だけどね)。
だから朝ご飯はあまり美味しくない(「壁土のような味」がしたり「綿ぼこりのような味」がしたり)。
ところが「僕」が誰かに食事を供する側になったとたんに朝食はいきなり愉悦的な経験となる。
「後朝」(「きぬぎぬ」と読んでね)となると朝ご飯の愉悦度はさらに上昇する。
たとえば、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で「私」が生涯最後の朝ご飯を図書館の女の子と食べる場面に村上春樹は異常なほど精密なレシピを記している。
「私は鍋に湯をわかして冷蔵庫の中にあったトマトを湯むきし、にんにくとありあわせの野菜を刻んでトマト・ソースを作り、トマト・ピューレを加え、そこにストラスブルグ・ソーセージを入れてぐつぐつと煮こんだ。そしてそのあいだにキャベツとピーマンを細かく刻んでサラダを作り、コーヒーメイカーでコーヒーを入れ、フランス・パンに軽く水をふってクッキング・ホイルにくるんでオーヴン・トースターで焼いた。食事ができあがると、私は彼女を起し、居間のテーブルの上のグラスと空瓶をさげた。
『良い匂いね』と彼女は言った。」
実はこのあとにもうひとつ重要な一節が書き込まれている。
「『もう服を着てもいいかな?』と私は訊いた。女の子より先に服を着ないというのが私のジンクスなのだ。文明社会では礼儀というのかもしれない。」
ほらね。ここでも「同期」だ。
もうひとつ、『ダンス・ダンス・ダンス』で「僕」が五反田くんの家にコールガールたちを呼んで一夜を過ごしたあとの朝ご飯。
「僕が台所でコーヒーを作っていると、あとの三人が目を覚まして起きてきた。朝の六時半だった。(…) 僕らは四人で食卓についてコーヒーを飲んだ。パンも焼いて食べた。バターやらマーマレードやらを回した。FM の『バロック音楽をあなたに』がかかっていた。ヘンリー・パーセル。キャンプの朝みたいだった。
『キャンプの朝みたいだ』と僕は言った。
『かっこう』とメイが言った。」
メイのつぶやいた「かっこう」という声はそのあともずっと「僕」の脳裏についてまわる。
死んだメイを思い出すたびに、その声が聞こえて「僕」はつらい気持ちになる。
それは「キャンプの朝みたいだ」と「かっこう」が幸福な「同期」のシグナルだったからである。
というようなことを教務部長室のパソコンでさくさくと書いているうちに授業の時間となる。
三年生のゼミは「思春期」、大学院のゼミは「占いブーム」。あいだにゼミ面接。
ゼミ面接は今年から予約制にしたので一人5分、1時間半に9組18人。それが5日あるからたぶんトータルでは70人くらいと面接することになる。
昨日までで40人くらいと会う。
総文の学生の三分の一くらいとまとめて面談するわけであるから、学生の知的傾向の定点観測としてこれほど有用なものはない。
全体の傾向を申し上げるならば、「専門志向」から「教養志向」へのシフトを見て取ることができる。
これまでの面接では2年生の秋であるから、もちろんどんな分野についても専門的な知識や技術はまだ身についていないわけであるが、それでも専門的な知識や技術を習得することへの「焦り」のようなものは濃厚にあった。
何か資格や免許を持っていないと「つぶしがきかない」んじゃないかという恐怖が感じられた。
その焦りや恐れがどうも消失したように見える。
かなりの数の学生が「問いの次数を一つあげる」という私のゼミ案内のコピーに反応して来た。
情報そのものを集積することより、情報の被制性やイデオロギー性についてのリテラシーを身につけることの方が生き延びる上で有効だということを彼女たちは皮膚感覚的に感知し始めているのであるようである。
それを「教養」というのだよ、諸君。
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(2006-12-04 11:51)