今年最後のTOKYO

2006-11-24 vendredi

合気道自由が丘道場創立45周年記念の稽古会、祝賀会に上京。
ドクター佐藤、飯田先生ご夫妻とセトッチとウッキーと新幹線で東京へ。
現地でかなぴょんが合流して、甲南合気会からは 6 名の参加。
31年前の冬のある日、ふと思い立って自由が丘道場の扉を叩き、多田先生に出会ったことによって以後の私の人生は一変した。
今日の私があるのは多田先生のおかげです、と祝辞を述べた諸先輩が次々と口にされたが、これは修辞ではなく、私たち全員の実感である。
1975年25歳の私は将来自分が道場で武道を教え、武道の術理と哲学の綜合をライフワークにする大学教師になるなどと想像だにしていなかった。
「師」とは絶対的他者であり、「弟子」は師の他者性に基づいて、おのれを囚えている知的閉域から解き放たれるということを私は多田先生に仕えて学んだ。
その後にエマニュエル・レヴィナス老師という、もうひとりの師に出会うことができたのも、私が多田先生によって「師弟関係」の本然のあり方というものについて学び始めていたからである。
1980 年から 90 年まで、日本中がバブル景気で浮かれていた10年間、私は世間とは無縁なところで、昼間はレヴィナスの著作を訳し、夕方からは自由が丘道場に通うという判で押したような生活をほとんど聖務日課のように律儀に守って暮らしていた。
今から思うと、(まわりから見たら、およそ曲のない)その10年間が私にとっては「至福の修行時代」だったのである。
90 年に関西に移り、大学で教える傍ら、自分の道場を持ち、自分の弟子を育てるようになった。
そして、多田先生の謦咳に日常的に接することのできたそれまでの15年間がどれほど豊かな時間だったかを改めて思い知らされたのである。
爾来16年、関西で過ごした時間は自由が丘道場在籍期間をもう超えてしまった。
昨日の稽古会、祝賀会でくるくると働いている自由が丘の門人諸君のほとんどは私が関西に去ったあとに入門された、私が道場で直接稽古をしたことのない方々である。
彼らから見ると、私は「大昔にスピンオフしたよその先生」というふうに見えているかもしれないけれど、私自身はいまでも自分を自由が丘道場の門人の一人だと思っている。
90 年の3月に門人たちが当時道場があった若草幼稚園で私の送別会を開いてくれたことがあった。
多田先生も来てくださったその送別会で、私は同門のみなさんから過分のお言葉と贈り物をいただいた。
宴の最後に謝辞として、私はこう申し上げた。

「私はどこに行ってもずっと自由が丘道場の内田です。生涯ここの門人です。」

それからもう一つ約束した。

「あと3年待っていてください。神戸女学院の女子学生たちを引き連れて日本武道館に戻ってきます」

二つめの約束は2年後に実現した。
最初の約束は今も変わらない。
昨日の祝賀会には道場の大先輩がたもたくさん顔を見せていた。
亀井格一師範、山田博信師範、窪田育弘師範、そして初心のときからご指導いただいた笹本猛、岡田康太郎、小野寺親、百瀬和輝・・・の諸先輩の懐かしい顔にご挨拶をする。
お祝いに来てくれた雑賀さんはじめ工藤くん、のぶちゃん、ツッチーら気錬会諸君の久闊を叙す。
1メートル歩くごとに知り合いにぶつかる(当たり前だけど)。
長く一緒に稽古してきた大田正史さんが全体の責任者としてこの大きなイベントを仕上げてくれた。
私と同期で「永遠のコンビ」である小堀秋さんが最後に万感のこもる謝辞を述べた。
聴いているうちにちょっと目頭が熱くなった。
司会の今井良晴くんは私が自由が丘を去る直前に入門され、送別会の日にギターを弾いて座を盛り上げてくれた若者であるが、もう立派なおじさんになっていた。
もうひとりの司会のゆかちゃんは私の記憶の中ではちびちゃん中学生だったけれど、彼女ももう立派な大人の女の人になっていた。
2011年の創立 50 周年の祝賀会にもまたみなさんと再会できるように祈念する。
お帰りになる多田先生をお見送りする。
先生の乗り込まれたタクシーが発車したので、きびすを返そうとしたら、いつのまにか私の横に立っていた亀井先輩から「見送るというのは、見えなくなるまで見送るということだ」と一喝された。
あ、また亀井先輩に叱られちゃった。
思わず振り返って「ありがとうございます」と最敬礼する。
会えば必ず叱ってくれる先輩がいるというのがどれほど稀有なことか、この年になるとしみじみ身にしみる。
自由が丘の諸君の打ち上げにお招きいただき、小堀さん、大田さん、荒井さんたちのご苦労をねぎらって、西田くん、今井くんはじめ後輩諸君と歓談。
「内田くん、いっしょに帰ろう」という亀井先輩と連れだって渋谷までご一緒する。車中寸暇も惜しんで後輩に修行の心得を説いてくれる亀井先輩に心の中で手を合わせる。

明けて 24 日は教育関係の対談仕事が二つ。
一つはニッポン放送で、菅原文太さんのラジオ番組「日本人の底力」のゲストにお招きいただいたのである。
私たちの世代に広能昌三のオファーを断れる人間はいない。
番組は日曜の早朝5時半から6時に放送しているもので、各界の「地に足をつけた生き方をしている客人」を招いて、日本のあるべき姿を探ってゆくという趣旨のものである。
私が「地に足のついた生き方をしている」人間であるかどうかについては、疑念を抱かれる方もおありであろうが、その辺はスルーしていただきたい。
今日のテーマは日本の教育。
菅原さんは共同通信に寄せた「止まらぬ大学淘汰」と文芸春秋特別号の教育特集の私の文章を読まれたそうである。
文春には養老先生と茂木さんと布施さんの師弟鼎談が採録されていたが、その中で養老先生が『先生はえらい』に言及してくださったので、菅原さんはそれもお読みくださって、対談に臨んでこられたのである。
ラジオはご存知のとおりたいへんカジュアルなメディアであって、拘束時間と収録時間がほとんど同じである。
「こんにちは」と局に入り、ディレクターと菅原さんご夫妻にご挨拶してからスタジオに入り、出されたコーヒーを飲んでいるうちに、そのまま本番。
打ち合わせも何もなし。
教育の危機についての菅原さんは深く憂慮されておられた。
どうして日本の教育はこんなになってしまったのか。
ご下問にこんなふうにお答えする。
最大の責任者は実は私たちの世代である。
たしかに戦後教育は制度疲労をきたしてはいたが、60 年代後半にその息の根を止めたのは私たち「全共闘世代」である。
刻下の歴史的状況を理解せず、適切な階級的対応を怠ったことを責め立てて、私たち 60 年代キッズは教師たちに歴史の名において「退場」を宣告した。
そうやって「誰であれ教壇の向こう側にいる限り、教師は教師として機能する」という人類史と同じだけ古い教育原理を「歴史のゴミ箱」に叩き込んだのは私たちである。
教師に「人に教える資格」の実定的条件を求め、その「資格」を満たさない教師を教壇から追い払うことに同意したのはほかならぬ私たちである。
私がいまごろになって「教育の再構築」について気弱な提言をしているのは、私たちの世代が破壊したものについてのせめてもの「罪滅ぼし」なのである。
とりあえず、私たちは自分が「何を」壊したのかを知っている。
その点では、教育崩壊に自分には何の責任もないと思っている政治家や官僚やメディア知識人よりは、教育再生について実のある提言ができるのではないかと思っているのである。
そういうのを「マッチポンプ」というのではないか、と言われるとそれまでであるが。
1時間半にわたり、菅原さんのゆったりとした深い声に導かれながら、思うことをぽつりぽつりと語る。
収録が終わってから、ツーショットを撮っていただき、「菅原さん、ぼく、『まむしの兄弟』からの文太ファンなんです。『仁義なき戦い・頂上作戦』のラストシーンは僕の日本映画ベストショットのひとつです」とカムアウトして、握手してもらう。

「昌三、こんなん何年打たれたん」
「七年じゃ」

うう。家に帰ったらもう一回 DVD 見ちゃおう。

そのあと、今度は河岸を変えて、文科省に。
文科省の私学行政課長の杉野剛さんと対談。
杉野さんは91年の大学設置基準の大綱化、国立大学の独法化、大学の自己点検評価活動、認証評価・・・その他90年代以降の大学改革のすべてにコミットしてきた文科省の「仕掛け人」である。
文科省の私学行政の責任者であるから、うかつなことを言うと本学の助成金にも影響が出るのでは・・・とどきどきして対談に臨んだのであるが、たいへんに率直な方で、録音はしたけれど活字にするのはいかがなものか、という本音の部分をずいぶんお聴きできた。
これは来春朝日新聞から出る私の「教育論」本の巻末に収録される予定。
さすがに盛りだくさんのメニューで疲れ果てて新幹線に乗る。
メールをチェックすると「締め切り過ぎてますけれど、原稿はどうなってます」というイラつき気味の督促メールと、明日の午後までに校正してねという連絡が入っている。
明日は朝から日本ユダヤ学会の幹事校としての肉体労働が待っているのに。
はふ〜
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