一億総学力低下時代

2006-11-22 mercredi

慶應義塾大学と共立薬大が 2008 年度に合併する。関西学院大学と聖和大学の合併に続いて、二件目である。
毎日新聞の社説はこのニュースにこうコメントしている。

「来年度は大学・短大志望者が総定員に収まる『大学全入時代』。既に定員割れを起こす大学が相次ぐ中で、今回の合併劇は統合・淘汰の時代の始まりを示唆する。」

この状況判断はその通りである。
しかし、統合・淘汰を手放しで「市場の論理」として受け容れるべきではない。
そのことはこれまでも繰り返し申し上げてきた。
毎日新聞の社説もその点については留保をしているが、私の見解とはいささいかの「ずれ」がある。
社説はこう続く。

「こんな時代になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。大学教育の『質の低下』という積年の、本質的な問題がある。(…) 経済成長や基準緩和の中で増え続けた大学(06 年度学校基本調査で、国立87校、公立89,私立568)は、今、適当な校数へのスリム化が課題なのではなく、真に高等教育の機関として機能しているか、内実を問われているのだ。この根本的な論議を避け、問題を先送りにし、大学の数を減らすだけなら、大学教育そのものが無用とされる時代を招来しかねない。」

この部分だけを読むと、大学生の学力低下は主として大学の責任であると解されかねない。
これは現場の人間としてはいささか異議のあるところである。
どの大学でも、あっと驚くような学力の新入生を迎えて仰天している。
「いったい高校まで何をやっていたんだ・・・」と責任を転嫁してもしかたがないから、中等教育の分の「おさらい」から導入教育(補習ですね)をしている。
四月からの授業とあまりにレベル差があるので、入学前の三月から補習を始めている大学もある。
「新入生の学力」が低いのはどう考えても「大学の責任」ではない。
「だったらそんな学力の低い学生を大学に入れるな」というご意見もあろうかと思う。
なるほど。
だが、その「低い学力」の子どもたちが、それ以上の教育機会を与えられぬまま社会に送り出されることで、日本社会がどのような利益を得ることになるのか、まずそれをご説明願いたい。
話はそのあとだ。
世間の方はご存じあるまいが、大学レベルの教育にキャッチアップさせるために、当今の大学教師たちは十年前二十年前の大学教師たちには想像もつかないような「宿題」やら「補習」やら「添削」やらのオーバーワークを余儀なくされている。
定員確保のための「営業活動」を加えると、本学においても教員一人当たりの教育関連の実働時間は十年前の二倍を超えている。
もっと過重労働になっている大学もあるだろう。
「大学教育の質を維持するための努力」はどの大学も行っている。
論説委員は大学の現場をご存じなのであろうか。
大学は「もっと努力しろ」で話を済ませてよろしいのであろうか。
学力低下の原因についての「根本的な議論」はもっと深い処から始めるべきではないかと思う。
根本的な議論をしろというなら早速させてもらうが、学力低下の原因は日本社会全体が(この毎日新聞の社説も含めて)、学力低下に無意識のうちに加担しているという事実のうちにある。
「根本的な議論」を始めるなら、まずそこからだ。
なぜ学力は低下するか?
それは「学力が低下する」ことが多くの日本人にさしたる不利益をもたらさないからである。
というより、「学力が低下する」ことからかなりの数の日本人が現に利益を得ているからである。
人間は(少なくとも主観的には)利益のないことはしない。
これがすべての社会問題を考えるときの前提である。
では、子どもたちの学力が低下することから誰が利益を得ているのか?
答えは自明である。
まず子どもたち自身である。
考えれば誰でもわかる。
子どもたちは「同学齢集団」の中で競争する。
輪切りにされた同学齢100万人ほどの中でどこの順位にいるか、ということだけが重要であって、その順位自体は「絶対学力」とは関係ない。
偏差値というのはそういうことである。
受験は同学齢集団内の競争であるから、絶対学力の低下は現象としては顕在化しない。
そして、同学齢集団内だけの競争においては、必ず集団全体の学力は低下する。
当たり前である。
メンバー数有限の集団における競争では「自分の学力を上げる」ことと「他人の学力を下げる」ことは結果的には同じことだからである。
「自分のパフォーマンスを上げる」ことと「他人のパフォーマンスを下げる」ことでは、どちらが多くの努力を要するか?
これも考えるまでもない。
自分が勉強するより、競争相手の勉強を邪魔する方がはるかに簡単である。
だから、閉じられた集団で競争させれば、全員が「他人のパフォーマンスを低下させること」にリソースを優先的に配分するようになる。
授業中に立ち歩くのも、教師に食ってかかるのも、学校の備品を壊すのも、同級生をいじめるのも、自殺に追いやるのも、子どもたちにとっては結果的にはその時間粛々と勉強しているのと同じ(それ以上の)効果をラットレースでの「勝ち残り」という点ではもたらす。
だから、問題行動をする子どもたちを「不合理な行動」をしているとみなすのは間違っている。
彼らは合理性に「取り憑かれている」のである。
受験生を持つ親は、受験シーズンに「インフルエンザ流行」というニュースを見ると、自分の子どもの健康を祈願すると同時に、自分の子ども以外の受験生全員がインフルエンザに罹患して高熱を発して試験会場にたどり着けないことを(無意識のうちに)祈願する。
受験シーズンにソニーは PSP を任天堂は DS を発売する。
「クリスマスシーズンですから」とメーカーは説明するし、本人もそう信じているのであろうが、携帯ゲームをこの時期に発売することは受験生の勉強への集中力を上げる方向には1ミリも貢献しないことはメーカーの営業は熟知しているはずである。
それでもあえてこの時期を選ぶのは、「(自分自身、あるいは自分の子ども以外の)子どもたちの学力をできるだけ低下させることから私は損失よりもむしろ利益を得る」という判断についての社会的合意が存在するからである。
試みに年末年始のテレビを点けてみるとよい。
その中に「日本の子どもたちの学力が低下しているそうですから、どうです、ここはひとつ、受験シーズンに子どもたちが勉強に集中できるように歌舞音曲は自制しては」というような「常識的判断」の痕跡を発見することは絶望的に困難である。
ゴミのようなバラエティを垂れ流す暇に、『三日間基礎英文法まるかじり』とか『映像で見る世界史 48 時間集中講義』とか『まるわかりオリジナル源氏物語』とか、そういうものを放映した方が、テレビの報道番組でキャスターが額に皺を寄せて「この国の学力低下はどうにかならないのでしょうか?」とぼそぼそつぶやいているよりいくらかは効果があるのではないかと私は思うが、私に同意してくれる人間はTV業界にはたぶん一人もない。
別にそれが「悪い」と言っているのではない。
人間は「そういうものだ」ということを申し上げているのである。
大学生の学力低下の原因は、「日本の子どもたちの学力が低下することからは(少なくとも私は)利益が得られる」と考えている日本人が社会の相当数を占めているということにある。
市場もメディアも親たちもそして子どもたち自身も、日本人の学力が下がることから自分だけは利益をかすめ取ることができると信じている。
その暗黙の合意に基づいて、お互い「他人の学力を低下させること」に優先的にリソースを投じて、その結果、日本は「こんな世の中」になってしまったのである。
誰が悪いわけでもない。
メディアだって人のことは言えないはずである。
私が新聞に寄稿する記事はしばしば「こんなむずかしい言葉を使っては困ります」と突き返される。
先日は某新聞から「リベラルアーツ」が「読者には理解できないから、説明を入れてください」と言われた。
「エビデンス・ベースト」も一蹴された。
「では、おたくの新聞は読者の中で一番リテラシーの低い人間を基準に紙面を構成されているわけですね?」と私は訊ねた。
「なら、いっそ、全部ひらがなにしちゃったらどうです?」
記者は絶句していた。
読者にむかって「わからないことばがあったら辞書を引きたまえ」ときっぱり言い切ることのできる新聞はいま存在しない。
おそらくメディアの側は「これはリーダー・フレンドリーということです」と言い訳するだろう。
そうだろうか。
そのようなリーダー・フレンドリーネスを追い求めたあげく、現代日本の新聞は半世紀前の新聞と読み比べても、使用できる語彙が激減してしまった。
「語彙」を「語い」と書き換え、「範疇」を「範ちゅう」と書き換えることが子どもたちの学力の向上にどのような貢献を果たしたのか、メディア関係者からのご説明があれば、お聴きしたい。
というわけで、はなはだ失礼とは思うが、さきほどの文章の中の「大学」を「新聞」に置き換えてそのまま毎日新聞の論説委員にお返ししたいと思う。

「こんな時代になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。新聞の『質の低下』という積年の、本質的な問題がある。
(…) 経済成長や基準緩和の中で増え続けた新聞は、今、適当な紙数へのスリム化が課題なのではなく、真にメディアの機関として機能しているか、内実を問われているのだ。この根本的な論議を避け、問題を先送りにし、新聞の数を減らすだけなら、新聞そのものが無用とされる時代を招来しかねない。」

彼の大学論はそのまま新聞論としても読むことができる。
どんな論件にも妥当する推論形式は「普遍的真理」を語っているとみなすべきか、それとも「具体的なことは何も語っていない」とみなすべきか。
そのご判断はみなさんにお任せしよう。
繰り返し言うように、別に私は誰かに学力低下の責めをおしつける気はない。
子どもたちの学力低下について「誰の責任だ」と凄んでみせる資格のある人間は日本には一人もいない。
私たちはこの点については全員同罪である。
それゆえ、まず自分自身がそれと知らずにどのように「子どもたちの学力低下」に加担しているのか、その自己点検から始める他ないだろうと思う。
「根本的な議論」はそこからしか始まらない。
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