教育基本法と真の国益について

2006-11-16 jeudi

教育基本法が委員会を通過した。
これまで何度も申し上げたとおり、教育については国は口を出さない方がいいと私は思っている。
それは「国が教育に口を出さない方が私にとってよい」ということではなく、「国が教育に口を出さない方が国にとってよい」と思っているからである。
忘れてもらっては困るが、私は熱烈な愛国者であり、日本が住みよい国になって、日本国民がにこにこ幸福に暮らすことを切望する点において、私の愛国心を超える人間としては急に訊かれると村上龍くらいしか思いつかないくらいくらいのパトリオットなのである。
加えて、ガバナンスのコストをできるだけ削減したいと望んでいる点においては、おそらく日本国官僚のうちで私以上に計算高い人間を探すことはまずもって至難の技であろう。
その私が言うのだから、信じて欲しい。
教育のことはそれぞれの教育現場で各自好きにやってもらうのがもっともコストパフォーマンスがよい。
公権力の介在は有害無益である。
教育を全国斉一的に管理する機関がなかった時代(つまり明治維新まで)、日本の教育はその当時の世界最高水準にあった。
270の藩にはそれぞれ藩校があり、全国に私塾があった。
幕末期における最高最強の教育機関といえば松下村塾であるが、これは長州萩城下松本村に天保年間に吉田松陰の叔父の玉木文之進が自宅で開設したものである。
それを松陰が引き継ぎ、その門下からは高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、前原一誠ら維新の中心人物が輩出した。
緒方洪庵の適塾も天保年間に開設された私塾である。
ここに学んだ塾生 600 人のうちに私たちは福沢諭吉、大村益次郎、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介を数えることができる(『福翁自伝』を読むと、その狭さと暑苦しさにはちょっとうんざりするけど)。
千葉周作の玄武館は剣道の道場であるが、広義には「私塾」と呼んでよいであろう。
玄武館からは坂本龍馬、清河八郎が出た(私の高祖父内田柳松も玄武館の門人であったし、あと、赤胴鈴之助もそうでしたね)。
これらの私塾が送り出した英傑たちの破天荒な活躍によって日本の近代化は成し遂げられた。
その歴史的事実に異論を唱える与党議員も文部官僚もおそらく一人としていないであろう。
その上でお訊きしたいのだが、では近代日本史上もっとも成功した教育システムである「幕末の私塾」がなぜ放棄されて、明治の公教育システムは構築されたのか?
その理由を400字以内で説明することができる与党政治家・文部官僚がいたら、ぜひお答え願いたい。
おや、お答えがないようだ。
そりゃそうだろう。
「幕末の私塾」が生み出したのが「回天の英傑」たちばかりだったからである。
そんなものにぞろぞろ輩出されたのでは近代国家のプロモーション・システムは立ちゆかない。
「政体を転倒するほどのスケールの大きい人間を作り出す教育システムはもう要らない」ということを暗黙の前提として、明治以降近代の公教育システムは構築されたのである。
「国家須用の人材」というのは、言い換えると「小粒の人間」ということである。
明治以来の日本の公教育システムは「人間の粒」を小さいスケールに整えることを主たる目的として運営されてきた。
私が言っているのではない。
ミシェル・フーコー先生がそうおっしゃっているのである。
私は「それが悪い」と言っているのではない。
国民ひとりひとりの人間的スケールよりも、ガバナビリティの方が優先するという政治的判断は「あり」である。
だが、その「犯意」についてはぜひ自覚的でありたい。
維新から140年、元勲たちの思惑どおり、日本人は限りなく「小粒」になった。
たしかに「小さい粒」は管理しやすい。
けれど、あまりに小さいと今度は管理の「網目」にもかからない。
管理ができなくなっているから、文部官僚は慌て始めたのである。
勘違いして欲しくないが、私は「ガバナビリティ」の重要性をよくわかっているつもりである。
効果的な法治と通貨の安定と国民のモラル維持はガバナンスの基本である。
その上で申し上げるのだが、いくらなんでももう少し国民の「粒」を大きくする方向に教育政策を補正した方が「ガバナンス」上よろしいのではないか?
今般の教育基本法改訂の目標は現行の教育基本法の第十条である。
第十条にはこう記してある。

「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」

改訂論者たちはこの「不当な支配」という文言がお気に召さないらしい。
「支配」する側にいる方たちが「不当な」という形容詞がお気に召さないのはよくわかる。
しかし、戦後二年目にこの文言を起草した人々は「教育勅語」による管理教育がもたらした惨禍が骨身に沁みていた。
だから、「できるだけ教育は国家が管理しない方がいい」という自制の言葉をみずからが制定した法律のうちに書き入れたのである。
私はこの経験的知見を重く見る。
だが、この自制の言葉がお気に召さない方々が教育の国家管理を強化するために法律を改定しようとしている。
それでよろしいのであろうか。
繰り返し言うが、私は愛国者であり、かつたいへん計算高い人間である。
その立場から、国民のうちに一定数の「大粒」の人間の出現が間歇的にではあれ担保されるシステムの方が、そうでないシステムよりも国がクラッシュする危険が少ないだろうと考えている。
子どもを育てるシステムはできるだけ斉一的でない方がシステム管理上安全である。
教育を過度に管理することは「システム管理上」危険である。
そう申し上げているのである。
私は「みんな好きにやればいいんだよ、ピース」というような底の抜けた自由主義を説いているのではない。
日本のシステムを一日でも長持ちさせたいのであれば、本気でシステム管理上の安全を考えた方がよい、と申し上げているのである。
教育については「とりあえず現場の好きにさせておく」という方向にシフトする方が今の日本の国益にはかなっている。
私は「教育の理想」を語っているのではない。
「明日の日本国の米櫃」の心配をしているのである。
教育基本法を改定しようとしている政治家や官僚たちがめざしているのは日本人をさらに「小粒」にするという政略である。
「国民が小粒になりすぎると管理不能になる」という非情な現実にもう少しまじめに向き合った方がよろしいのではないか。
いや、本気で心配してるんだよ。
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