2年生のゼミで「食事と家族」についての発表があった。
「個食」という言葉が日本語の語彙に登録されて久しい(ATOKでは「こしょく」と打つとちゃんとこの文字が出てくる)。
ご存じでない方のために申し添えると、これは「ひとりでご飯を食べる」ということである。
「個食」は「孤食」でもある(これもATOKの語彙には収録されている)。
同じテーブルを囲んでいても、家族がばらばらに違うものを食べているのであれば、それも個食である。
同じテーブルを囲んで、同じ食物を食べていても、全員がテレビを見ていて無言でいるなら、それも広義における個食である。
個食の反対概念を考えればよろしい。
それは「共食」である(「ともぐい」と読まないでね)。
人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。
共同体を立ち上げる基本の儀礼である。
それは原理的には「分割不可能なものを分かち合う」という仕方で行われる。
だから共食の原型は「液体の回し飲み」である(インディアンや西海岸キッズのように「気体の回し喫み」というバリエーションもあるが)。
その場合の「液体」は共同の容器に入れられ、容器には安定的に置くことのむずかしいものが選ばれる。
「杯」というのは構造的に不安定なものである。
ジェームズ・ギブソン的に言えば、「酒杯はそれをテーブルから持ち上げ続ける動作をアフォードする」ということである。
酒杯というのは、「卓上に置いたままにしておくと不安定に見えるので、つい手に取りたくなる」ような形状をしている。
だからたいてい逆三角形をしているし、酒杯の中には「底が丸いもの」や「底に穴があいているもの」(絶えず指で穴を押さえていないと中身がこぼれ出る)ものがある。
「さかずき」の古いかたちとして漢字は「觴」や「觚」や「斛」などを持っているが、これは扁からわかるようにあるが、それが獣角から作られたことを示している。
獣角は古代において身の回りに見出される「もっとも先端の尖った自然物」であるはずだから、「決して安定的に立たないこと」を主な目的としてこれが選択されたと推論することは間違っていないであろう。
杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。
両手を自由にするためには、杯を別の人間に手渡すしかない。
つまり、杯の場合であれば、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。
献酬という習慣は私たちの社会からもう消えてしまったが、それでもまだ宴席において、「自分のビール瓶」を抱え込んで手酌で飲むのは非礼とされている。
自分のグラスが空になったら、面倒でも隣の人のグラスにビールを注ぎ、「あ、気がつきませんで・・・」と隣の人がビール瓶を奪い取って、こちらのグラスに注ぎ返すのを待たなければならない。
「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。
嫌煙時代になってすっかり見なくなったが、むかしはある程度以上の格式の会社の応接間には必ず「煙草盆」があり、煙草とライターと灰皿の三点セットが置いてあった。
応接間に通されるとまず茶が出る。
茶を喫して、煙草を吸う。
「出会いの儀礼」だから、これは来客の側の義務として観念せられていたのである。
「のど渇いてないし、別にお茶飲みに来たんじゃないから」というのは合理的なご判断かも知れないけれど、それは共同体を立ち上げようという相手からオッファーを拒否することに等しい。
「お茶しない?」という誘いを断るのと同義である。
どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってもっとも貴重な財だったからである。
もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う。
友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。
言葉が通じなくても、習俗や宗教が違っても、生物である限り、食べ物と飲み物が貴重なものであることについての判断の汎通性は揺るがない。
もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。
それぞれの食べ物については固有の「食べ方」というものがある。
身をほぐす、皮を剥く、頬張る、噛み砕く、啜り上げる、呑み込む・・・といった咀嚼嚥下にかかわる一連の動作はある種の「コレオグラフィ」とみなすことができる。
同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。
恋人同士が差し向かいで食べているとき、それは pas de deux を踊っているのに似ている。
「同時に食べ始め、同時に食べ終わる」ことがデートの際の食卓儀礼として重視されるのは、そのせいである。
動作が一致すると、ふたりの呼吸が合う。アラインメントが合う、コヒーレンスが整う。
それは細胞レベルで「同体化した」ということである。
ご飯がきちんと美味しく食べられる相手であれば、エロス的関係においても同じような同期が期待できるということを私たちは無意識的には知っている。
だから、とりあえず「飯、食いにいかない?」ということになるのである。
あれは「瀬踏み」をしているわけである。
いっしょにご飯を食べていると、カップラーメンでも美味しく感じられるという相手であれば、それ以外の共同的な作業においてもだいたいうまくゆく可能性が高い。
共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。
話を戻すと、それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。
それが可能であるのは二つ理由がある。
一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくても一人で生きていける」と人々が考えているからである。
これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。
けれども、人類が誕生して数十万年の間、「食物や水が貴重な財ではなく」、「共同体に帰属しなくても一人で生きていける」という環境に人間が生きることができたのはきわめて例外的な場合だけである。
ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き伸びられなかった。
だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」になっている。
現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上希有の社会である。
だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。
私はそのフリクションは日本の繁栄と平和のコストだと思っている。
「個食」というような特権的な食物摂取が可能であった社会はこれまで存在したことがない。そして、そのような特権がいつまで継続するのか私たちにはわからない。
だったら、とりあえずひとりでまずい飯を食うことができ、家族がたがいを不快に思っていても、それでも生存が可能な社会を「人類史上例外的な幸運」として笑顔で豊かに享受する方向に気持ちを切り替えた方がよいであろう。
たぶんそうした方がご飯も美味しいし。
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(2006-11-18 08:55)