朝カル連荘

2006-11-20 lundi

よく考えたら、今週も休日のない一週間であった。
土曜日は稽古のあと、朝カルで「武術的立場」の第二夜。
今月のゲストはびわこ成蹊スポーツ大学の高橋佳三さん。
甲野善紀先生のもとで学び、古武術の術理をスポーツ(とくにご専門の野球)に適用する方法を開発している気鋭のバイオメカニクス学者である。
応接間で新婚の奥様をご紹介いただいていると、そこにぞろぞろと関係者が登場。
先月のゲストで今回はすっかりリラックスの守さんとミドリアタマさんの四国組(うどんとカステラありがとうございました)。来月のゲストの平尾剛さん。古武術を介護に生かして介護界に激震を与えている岡田慎一郎さん(柿をありがとうございました)。「武術的立場」を「カラ売り」した朝日新書の石川さん。高橋さんに野球を習いに来たかんきちくんと遊びに来たウッキー。
そのまま応接室でわいわいしゃべり、そのままの勢いで対談。
守さんにも平尾さんにもご登場願いました。かんきちくん、ウッキー、アシスタントありがとう。
どどどと打ち上げに雪崩れ込む。
このシリーズはいずれも甲野先生の強い影響の下に、それぞれの立場から新しい技法と理論の深化をめざしている若手にお集まりいただいてお話を伺うという趣旨のものであり、その場にいない甲野先生が実は影の主役なのである。
いまフランスに行かれている甲野先生の話で盛り上がる。
来月の平尾さんの後に全員集まって本格的な打ち上げをやりましょうねと約束して大阪駅頭でお別れ。

明けて日曜は朝カルの連荘で、奈良興福寺への「現代霊性論スピンオフ:大人の遠足ツァー」。
お昼前に釈先生が車でお迎えに来てくれる。
釈先生が来る前に、明朝締め切りの共同通信の原稿を一気書きする。
氷雨の中、高速を飛ばして30分ほどで奈良着。
興福寺本坊で釈先生がパワーポイントのセッティングをしている横でほっこりしているうちについ眠ってしまう。
興福寺のような霊的スポットのそのまた本坊の畳の寝心地の良さは筆舌に尽くしがたい。
今回の出前朝カルの参加者は足元のお悪い中にもかかわらず 60 名近く。
興福寺の若いお坊さんのお話を伺ってから、国宝館、東金堂を拝観(ここは前回の興福寺訪問のときに森谷執事長にご案内を頂いたので、二度目)。釈先生からじっくりと「みどころ」の解説をしていただく。
それから本坊に戻って、釈先生の「仏像の見方」レクチャーを40分ほど伺い、そのあと30分ほど対談。
私の実働時間はこの30分だけである。
倍音声明とクリント・イーストウッド映画の話をしたら、すぐに30分経ってしまった。
あとは送り迎えから会場のセッティングから阿修羅や薬師如来の鑑賞から仏像教室まで、90%は釈先生におんぶにだっこである。
これでギャラの半分を頂くのはあまりに理不尽であるが、そこはコンビ芸人である以上は仕方がない。
昨日の朝カルでもそういえば動いていたのもしゃべっていたのも、ほとんど高橋さんひとりで、私は「肩胛骨くるくる回してみせてください」とか「古武術的バッティングやってください」とかおねだりするだけの口パク仕事であった。
こんなふうに若い諸君の真剣なご努力にただ乗りするような世間を舐めた仕事の仕方をしているといずれゼウスの雷撃に打たれるであろう。
今日の釈先生の話のうちたいへん興味深かったのは、兵庫の浄土寺というお寺の「彼岸の夕方の阿弥陀如来のライティング」のお話である。
その寺は彼岸の日に、御堂の真後ろに日が沈むように(つまり東に向いて仏像が立つように)設計してある。
後ろは「蔀戸」になっているので、左右開きではなく、がばっと上に開く。
堂の後ろは下り傾斜になっていて、遠くに山があるので、山あいに日が沈むときに御堂の後ろからまっすぐ夕日が差し込むのである。
すごいのはその後で、堂から山の間の平地に九つの池が掘ってあって、そこに反射する夕日が仏像を「下から」照らすように仕掛けてある。
堂内に直接に差し込む日没の太陽光と、九つの池を順番にずれて差し込む夕日の反射光が光の交響楽のようなものを奏でる。
仏像は夕日に背中を向けているので、はじめのうちは顔がまったく見えない。
足もとだけしか見えない。
そのうちに下からだんだん光が上がってきて、最後にお顔が見えるときに、夕日が後輪のように輝き渡り、堂内は一瞬極楽浄土の幻影に満たされる・・・
こういう話を聴くと「昔の人はすごい」と思うと同時に「現代人はほんとうに多くのものを失ってしまった」ということを痛感する。
建築技術についていうなら、おそらく現代の方が浄土寺が建てられたときより桁違いに進歩しているのであろう。
けれども、このような宏大なスケールの、魂を揺さぶるような建築物を作れる人間も、そのような建築物を求める人間ももういない。
このような建築物は信仰があるところにしか成立しない。
いまでもさまざまな教団が巨大な建築物を造っているが、そこには巨富と権勢を誇る虚仮脅しはあっても、魂を揺さぶるような信仰の深度はない。
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