少子化と家族解体

2006-11-11 samedi

火曜の大学院のゼミのテーマは「少子化」であった。
これについては、これまでもすでに何度もこのブログで論じているので、とくに付け加えるべき意見はない。
少子化そのものは日本が国民国家として縮小段階に入ったことの徴候であり、無限の経済成長、無限の資源、無限の市場というありえない幻想から醒めつつあることを意味している。
こういうものは個人の発意や決断でどうこうなるものではなく、地学的な変動のようなものである。すでに人口負荷が日本の国土と環境の耐力限度を超えているのであるから、縮むのが合理的なのである。
これについては今年のはじめごろ、古田隆彦青森大学教授(人口社会学)の所論を紹介した。それを再度ご紹介しておこう。

人口容量(carrying capacity)という概念がある。
日本列島の人口容量は、旧石器時代で3万人、粗放農業文明期で700万人、集約農業文明期で3300万人と推定されている。
「この壁にぶつかる度に、日本の人口は停滞もしくは減少を繰り返してきた」
人口容量が限界に近づくと、限りあるリソースの分配方法について二者択一を迫られる。

「親世代は自らの水準を下げて子どもを増やすか、水準を維持して子どもをあきらめるか、の選択を迫られる。が、すでに一定の豊かさを経験している親世代は、それを落とすことを嫌うから、事前に晩婚や非婚を選んだり、結婚後も避妊や中絶を行って出生数を減らしていく。」

現在日本の人口は1億3000万人。これは列島のリソースが養える限界に近い数値である。

「そこで、多くの日本人は無意識のうちに人口抑制行動を開始」する。
「つまり、『晩婚化・非婚化』や『子育てと仕事の両立が難しい』という理由の背後には、『飽和した人口容量の下で自らの生活水準を維持しよう』という、隠れた動機が働いている。」

というのが古田先生の説である。
だから、少子化を金をばらまくことで解決しようとするのは政策的には無意味なのである。
人々が「標準的」と思っている生活水準が上がれば上がるほど、リソースの争奪戦は激化し、子供を持つことによる競争上の不利は増大する。
行政がやろうとしているのは、ありていに言えば、「子どもを生めば金をやる」「子どもを産んでも競争に不利にならないように支援してやる」という利益誘導である。
「すべての国民はリソースを奪い合って競争をし続けなければならない」というゲームのルールそのものには手を付ける気がない。
ならば、いずれは「子どもを一人生んだら、500万円の報償金を出す」とか「子どもを産んだ親はどこでも好きな大学に進学できる」とか「子どもを産んだら職場で二階級特進させる」とかといったアファーマティヴ・アクションを採用することになるだろう。
厚労省が実際にそういうプランを検討していても私は驚かない。
現に、「一人っ子政策」の中国では、「子どもを産まない」と誓約した夫婦には「団地への優先的入居権」や「ボーナス」を配給して実績を上げている。
逆だってできないことはあるまい。
中国では個人は子どもを欲しがっているが、国は子どもを欲しがっていない。
日本では個人は子どもを欲しがっていないが、国は子どもを欲しがっている。
個人と共同体の間に埋めがたい「行き違い」があるという点ではよく似ている。
中国において、子どもは社会的リソースの十分な分配を妨げるネガティヴ・ファクターであり、日本では子どもは親の自己実現や自己決定を妨害するネガティヴ・ファクターである。
どちらでも、人々は「子どもというネガティヴ・ファクター」のもたらす害をどうやって最小化するかというふうに問題を立てている。
そういうふうに扱われることは生まれてくる子供たちにとって決して幸福なことではないだろう。

木曜日は「家族崩壊」についてみずほ総研から取材を受ける。
同じような話が続く。
家族が崩壊したのは、これも繰り返し申し上げている通り、家族を解体し、家族ひとりひとりが孤立し、誰にも干渉されずに自己決定することの代償として、すべてのリスクを引き受け、すべてのベネフィットを独占する権利を手に入れるという生き方に日本人の多くが同意署名したからである。
家族がいない方が競争上有利である、と人々が判断したから家族は解体したのである。
逆に、家族がいる方が生き残る上で有利であると判断すれば、みんな争って家族の絆を打ち固めるであろう。
『ホテル・ルワンダ』はルワンダにおけるフツ族のツチ族虐殺を背景にした家族愛と隣人愛の物語である。
民族虐殺の現場に居合わせたときは、家族や隣人が利己心を棄てて支え合うことが単独で行動するよりも生き延びる確率が高い。
日本社会で家族愛や隣人愛が根づかないのは、「利己心を棄てて支え合う」ことによって回避されるリスクと「利己的にふるまって、他人を蹴落とし/蹴落とされること」のもたらすベネフィットを比べたときに、後者の方が大であるとみなさんがご判断されているからである。
それだけ日本が安全だということである。
「ルワンダで家族愛を享受するのと、日本で消費生活を享受するのと、どっちがいい?」と聞かれたら、誰だって「虐殺されるかもしれない状況で家族と支え合うより、孤独だけれど潤沢な消費生活を享受できるほうがいい」と答えるだろう。
私だってそう答える。
家族解体は平和のコストである。
引きこもりやニートがいるのも、最終的に「健康で文化的な最低限度の生活を営む」保証があるということを彼らが知っているからである。
高齢の無業者は保護者が死んだら、いずれ路上で餓死するしかないということであれば、誰も引きこもってはいられまい。
学びや労働や社会生活から逃走することのできる人間が百万単位で存在できるのは、日本が豊かで安全で福祉が充実しているからである。
家族の解体も、社会性の喪失も、「家族がいなくても、社会的能力がなくても、生きていける」という事実が周知されたことの結果である。
私はこれを戦後日本の60年の平和と繁栄の輝かしい成果として言祝ぐべきだと思う。
ただ、家族もいないし、社会的能力もないし、消費するだけで何も生産しない人々が一定数以上増えると、社会のキャリング・キャパシティに限界が来る。
そのときには、その人たちにも路上で餓死する可能性が出てくるだろう。
社会的なふるまい方の原則はどんな場合も同じである。
それは「世の中が全部『自分みたいな人間』ばかりになったときにでも生きていけるような生き方をする」ということである。
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