時間と死

2006-11-14 mardi

土曜日は入試。
このところ土曜日の仕事が立て込んで、八月から後、ずいぶん長いこと合気道の稽古に行っていない。
スケジュール帳を見ると、八月からあと、稽古に顔を出したのは数回で、年内もあと1回しか芦屋に行く機会がない。
30年来、どんなことがあっても、つねに「合気道中心」に生きてきた私であるが、さすがにこの年回りになると「稽古があるからダメです」で断ることのできぬ浮世のしがらみがだんだん増えてきたということである。
よくない傾向である。
授業がある日の仕事は「授業がありますから」と言ってきっぱりオッファーを断っているわけであるから、「稽古がありますから」ときっぱり断り切れないというのは、どこかに「合気道の稽古は私事である」という思いがあるからであろう。
そういう考え方はよろしくない。
授業が公的な仕事であるように稽古も私にとっては公的な責務である。
来年からは土曜日の仕事はすべて「稽古がありますから」で断ることにしよう。
10月11月の土曜日は入試で3回つぶれた。
入試のために働くのは少しも苦痛ではないが、稽古を休まなければならないのは筆舌に尽くしがたい苦痛である。
月曜の夜には杖道の稽古があるが、これも10月から1回しか顔を出せないままである。
月曜夜に会議と来客が集中したせいである(会議と来客と稽古がトリプルブッキングした日もあった)。
武道上の気づきや教えたいことはつきせぬほどあるのに、道場に立ってそれを検証する機会がない。
古諺に言う。すまじきものは宮仕え。
一日もはやく大学をリタイアして、稽古三昧晴耕雨読の隠居人生を迎えたいものである。
養老先生は大学を停年退職した翌日の朝、空を見たら、空の青さがまったく違って見えたそうである。
うちの妻はこんな澄み切った空の色を毎日見ていたのか、と思うと悔しくなったというお話しをしてくれたことがある。
経験したことがないけれ、気持ちは何となく想像できる。
私もそんな空の青を早く見てみたい。
60歳で早期退職予定であるから、次の四月、2007 年度入学の学生たちが卒業するときに私も一緒に「卒業」である。
カウントダウンというのは味わいがあってよろしいものである。
「こんな仕事が毎年続くのか・・・」と思うと面白くもないが、「この仕事もあと何回経験できるのであろうか・・・」と思うと、そんな仕事もいとおしく感じられてくる(入試業務でさえ)。
長屋でスーさんが自殺について書いている。
その中で、私の文章を引用されていた。
私が書いたのは「『生き終えた自分』という仮想消失点をリアルに想像し、そこから逆算して現在を見ることのできる人間の目にはすべてのものが移ろいやすく、儚く、そしてかけがえのないものに映る」ということであった。
カウントダウンは「時間は不可逆的であり、いまのこの瞬間は過ぎ去って二度と戻らない。It’s just another day ということはありえないのである」という平明な事実を思い知らせてくれる。
子どものときに、私はこのような変化のない生活がいったいどれほど続くのだろうと想像して、深い絶望に陥ったことがある。
蓮光院というお寺が通学路にあり、小学校1年生のとき、そのお寺の竹塀を指で数えながら通学している途中で、「次にこの竹の塀をしみじみ見るときはもう5年生くらいになっていて、『そういえば、1年生のときにそんなことを想像したな』と思い出して笑うことだろう」と思った。
ある日竹塀を指で数えながら通学しているときに「あ、まだ2年生だ」ということに気づいて時間の進み方の遅さにくらくらと目が眩んだ。
主観的にはもう10年くらい小学校に通っていたのに、わずか1年しか経過していなかったのである。
そのときに「子どもにとって時間は絶望的に長い」ということを思い知った。
私が「いまのこの瞬間は過ぎ去って二度と戻らない」という「取り返しのつかなさ」の感覚を知ったのは16歳のときである。
スキーを覚えて夢中になった。
部屋でスキー板を履いて、ストックを振り回しながら想像上のウェーデルンをしているときに、ふと「あと何シーズン、スキーができるだろう?」と考え、指折り数えたら、最大でも50シーズンくらいしかできないということに気がついた。
スキーができる冬が1年ごとに減ってゆくということを知って、部屋の真ん中でブーツをとスキー板を履いたまま呆然としたことを覚えている。
たぶん、その瞬間に私は「子ども」から「青年」というものにばりばりと皮を破って変化したのである。
「おっと、こうしちゃいられない」という言葉が私の口を衝いて繰り返し出るようになったのは、その日以降のことである。
いじめで自殺する子どもたちにとって、教室で過ごす1日の主観的な長さは大人たちの何週間か何ヶ月かに相当する。
私はかつて1年にわたって教師と級友たちから組織的にいじめられた小学生であったから、その時間の絶望的な長さははっきりと覚えている。
時間を「逆向きに数える (compter à rebours) する」ことができない子どもたちにとって自殺は誘惑的な選択である。
子どもに自分たちが「時間的存在」であることを教えなさい、ということをこのところずっと語っている。
時間の中を生きるということは、未知性のうちに生きるということである。
一瞬後の世界は予見不能であり、その中で自分がどのようにふるまい、どのような社会的機能を担うことになるのかを主体は権利上言うことができないという事実「から」出発することである。
それがレヴィナス老師の教えである。
私にはそれがあらゆる意味でいま日本社会にもっとも緊急に必要なことのように思われるのだが、時間の本来的未知性の大切さについて語る人はほとんどいない。
むしろ、その逆に、メディアで語るほとんどすべての人は「未来がどうなるか私にはわかっている」ということを競っている。
「想定内です」という流行語はそのような無時間モデルで生きる人間のメンタリティをよく表している。
「未来がどうなるかわからない」という原事実のうちに人間の人間性を基礎づけるすべてのものが棲まっているということに気づいている人はほんとうに、ほんとうに気が遠くなるほど少ない。
メディアは「無時間で一般解を提示すること」を商売の基本にしているから、当然ながら時間と未知性には興味を示さない。
「子どもの自殺について200字以内でコメントを」というような仕事を出すことも引き受けることも怪しまない大人たちのせいで子どもの自殺が止まらないということにどうして人々は気づかずにいられるのであろうか。
子どもたちが自殺するのは「自分の人生の意味を200字以内で言い切ることは可能であり、それができるのは自分が知的であり、自己の生を主体的に統御できていることの証拠である」と彼らが信じているからであり、そのような自己評価のあり方が私たちの社会では公的に認知されているからである。
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