ひさしぶりの、ほんとうにひさしぶりの休日。
眠りに眠る。
9時ごろ一度起き出して、ご飯を食べて、新聞を読んでいるうちに睡魔が襲ってきて、またパジャマに着替えて二度寝。
目覚めると正午。
そのままふとんの中で桑田乃梨子の「恐ろしくて言えない」を読む。
1 時近くになったので起き出して、梨を囓りながら、メールをチェック。
返事が要るものに返信をしてから、床屋に行く。
週日の昼間なので、誰もいない(床屋さんもご飯を食べに行って、いない)。
帰りを待って髪を刈って貰う。
家に戻ると3時過ぎ。
床屋で半睡状態だったので、そのままベッドに直行。
また眠る。
目が醒めたら午後5時。
さすがにあまりに非生産的な一日なので、反省して、産経新聞のエッセイ1800字「女子大有用論」を書く。
すらすら。
女子大が有用な理由は「私のような教師」を許容しているという当の事実が証明しているであろうという捨て身の大技。
書き終わったので、ついでに日経の「旅の途中」の 11 月分も書いてしまう。
さらさら。
これはどうして呪鎮の装置がなくても人々は「平気」でいられるのか・・・という謎について。
先日、六本木ヒルズにいったとき、あまりの「瘴気」に頭がくらくらした。
あれはたぶんあの場所に数千人からの人が蝟集しているにもかかわらず、霊的なキャナライザーが装着されていないせいではないかと思う。
「六本木ヒルズ神社」とか「六本木ヒルズ寺」とかを森ビルは勧請したであろうか。
おそらくしていないであろう。
ビジネスタームで考えたら、一文の利益も生み出さない神社やら寺やらに坪数百万円というような土地を割くわけにはゆかない。
そんなことをしたら株主総会で株主から会社に不利益を働いたとして「背任」容疑で告訴されかねない。
宗教から法外な利益をあげているビジネスマンたちがいる一方、ほんとうに宗教的な装置が必要なところにはビジネスは決して宗教のための支出を許容しない。
不思議な倒錯である。
人間がすむところには霊的なキャナライザー、呪鎮のための装置は不可欠である。
私はそう思っているし、そう思っている人は少なくないはずである。
釈老師から伺った話では、かつて千里ニュータウンが造成されたときに、その巨大団地に寺社が一つも含まれていないことに激怒したある僧が、阪急電鉄の小林一三に「霊的呪鎮をしない土地に人をすまわせるとはどういう了見だ」と噛みついたことがあった。
小林一三はさすが大人物で、その僧に千里山の頂上を与えて、「じゃあ、あんたがそこに寺を建てなさい」と言った。
そのお寺の住職さんがいま三代目で、釈老師のご友人だそうである。
佳話である。
明治生まれの財界人にはそれくらいの見識が備わっていたということである。
しかし、当今のデベロッパーやゼネコンの諸君のうちに、人間が住むところには呪鎮の装置がなくてはすまされないということを真剣に考えている人間がはたして何人いるであろうか?
そんなことを造成プランで提案したら、上司にしばき倒されるだろう。
「なに? なんだってヤマダ? 住民の霊的セキュリティのために寺を建てたらどうかって? バカ抜かすんじゃないよ。そんなに心配なら、お前自分で土地買って、そこに寺建てろ」
しかし、まことに不思議なことはこんなふうに部下のヤマダの霊的配慮を一蹴するスズキ課長は自民党支持者で、靖国神社の首相の公式参拝に賛成だったりするのである。
「英霊の魂を鎮めるためには中国との断交も辞さず」というような大言壮語を酔った勢いで口走るスズキ課長は、自分が「霊は正しく鎮めなければならない」という部下ヤマダの提言をさきほど鼻で笑ったことを忘れている。
もちろん彼は自分の家の近くに寺社が一つもないことをいささかも苦にもしていないし、かりに神社仏閣があっても、早起きしてそこの庭掃除をするでもないし、祭りの日に仕事を休んで神輿を担ぐわけでもない。
彼らのような人々にとって「霊」の問題は純粋に政治とビジネスの次元の問題であり、彼自身の実存にかかわる問いとして意識にのぼることは決してないのである。
そういう人間が「英霊」というような言葉をあたかも意味のある語であるかのように口走ることが許されているという日本の霊的無秩序を私はたいへんに危険なことだと思っているのであるが、私の不安に共感してくれる人はたいへんに少ないのである。
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(2006-11-01 19:49)