単位未修問題であちこちからコメントを求められる

2006-11-03 vendredi

高校の単位不足問題についてあちこちのメディアからコメントを求められる。
テレビだけはお断りしたけれど(すみません)、新聞雑誌からの取材にはその場で思いついたことをだらだらしゃべる。
私は高校の現場の人間ではないので、素人の意見を述べるしかない。
私の見るところ、この履修問題が顕在化したプロセスはつぎのようなものである。

(1)学習指導要領と現場での教育内容には乖離がある
(2)この乖離を学校と教育委員会は法規の「弾力的運用」によってつじつまあわせをしていた
(3)「弾力」の度が過ぎたので、あちこちでほころびが出た

この現状認識に特に異存のある方はいないであろう。
(1)は現実である。
実際に文科省の示す学習指導要領通りに授業をやるだけの時間も人的リソースも確保できないと悲鳴を上げている学校はいくらもある。
主な理由は(教員たちによれば)教員たちにあまりに大量のペーパーワークが課せられているために、授業に割く時間とエネルギーが減退しているためである。
これについては教育委員会や文科省にも言い分があるだろうが、私自身現場の教員として断言できることは教員たちがいま会議とペーパーワークに割くことを強いられている時間を子どもたちの教育活動に集中できるようになれば、日本の教育問題はとりあえず三割方解決するであろうということである。
私自身が大学で自己点検自己評価やFD活動や教員評価や教育効果測定といった文科省が推進してきた教育工学的実践のために割いた時間は数百時間にのぼると思われるが、それがどのくらい学生たちの知的向上に資するところがあったのかどうか、私にはわからない。
多少は効果があったのかも知れないが、私がパソコンに向かって官僚的作文を起草したり、エンドレスの会議で疲弊したその数百時間を学生といっしょに過ごすために用いた方が、間違いなく学生たちの満足度は高かったであろう。
なんだかずいぶん無駄なことしたような気がする。
話を戻す。
問題は(2)と(3)の間にある。
法規と現実のあいだに齟齬があるときには、「事情のわかった大人」が弾力的に法規を解釈することは決して悪いことではない。
今回の問題は(3)の「度が過ぎた」という点である。
「弾力的運用」ではなく、いくつかの学校では必修科目をネグレクトすることが「硬直化した構造」になってしまっていたということが問題なのである。
「度が過ぎた」せいでシステムがフレキシブルで生産的になるということはない。
これは経験的にはっきり申し上げることができる。
「度が過ぎる」とシステムは必ず硬直化する。
原理主義の度が過ぎても、自由放任の度が過ぎても、「政治的正しさ」の度が過ぎても、シニスムの度が過ぎても、放漫の度が過ぎても、厳格さの度が過ぎても、必ずシステムは硬直化し、システムの壊死が始まる。
そういうものである。
最初に文科省からのお達しを聴いて、「これをそのままに現場でやることは現実的にはむりだわな」と判断して、「というわけですので、みなさんここはひとつ私の顔に免じて、弾力的にですな、ご理解いただくという」というようなことをもごもご言った人がいた段階ではシステムはそれなりに「健全に」機能していたのである。
私はそういうふうに考える。
だから、「私の着任以前の何年も前からルール違反が常習化しており、私も『そういうものだ』と思っておりました」というようなエクスキュースを口走る管理職が出てきたことがシステムの壊死が始まっていた証拠である。
彼らはバブル末期の銀行家たちと同じように、「在任中に事件化しなければ、どのような法令違反も見ないふりをする」というかたちでルール違反を先送りしてきた。
だが、「超法規的措置」とか「弾力的運用」ということがぎりぎり成り立つのは、それが事件化した場合には、「言い出したのは私ですから、私が責任を私が取ります」と固有名において引き受ける人間がいる限りにおいてである。
法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその「生身」を供物として差し出す場合だけである。
川島武宜先生は「生身」を差し出すことによる「ソリューション」の代表例として河竹黙阿弥の『三人吉三廓初買』の「庚申塚の場」を挙げている。
お嬢吉三という悪党が夜鷹を殺して百両を奪う。
それを目撃して、「その百両をよこせ」と強請るのがお坊吉三。
二人が刀を抜いて金を争うところに、もう一枚上手の悪者である和尚吉三が登場する。
そして二人に向かって「己に預けて引いて下せえ」と持ちかけ、二人がとりあえず収めると、こう続ける。
「ここは一番己が裁きを付けようから、厭であろうがうんと云って話に乗ってくんなせえ。互いに争う百両は二つに割って五十両、お嬢も半分お坊も半分、留めに入った己にくんねえ。其の埋草に和尚が両腕、五十両じゃ高いものだが、抜いた刀を其儘へ収めぬ己が挨拶。両腕切って百両の、高を合わせてくんなせえ。」
言われた二人は刀を和尚吉三の腕に添えて、その腕を引き、自分たちの腕も引いて、それぞれ腕から流した血を啜り合って、「かための血盃」で兄弟分となる・・・というたいへん心温まるお話である。
これは紛争の超法規的=日本的解決の典型的な事例であると申し上げてよろしいであろう。
しかし、この調停が成功するのは、和尚吉三が「両腕」を供物として差し出すからである。
非妥協的な利害の対立の場面に「弾力」を導入することができるのは生身の身体だけである。
対立の場にねじこまれた生身の身体によって、対立の当事者たちはそれぞれ半歩退き、そこに一時的な「ノーマンズラ・ンド」(非武装中立地帯)のようなものができる。
これがソリューションとして有効なのは、それは当事者も仲裁者も、誰もがこの解決から利益を得ないからである。
これはどう考えても「正しいソリューション」ではなく、「誰にとっても同じ程度に正しくないソリューション」である。
だが、実際に組織で長く働いてこられた方は経験的によくおわかりだろうけれど、その解決から利益を得る人が誰もいないというソリューションこそがしばしば合意形成のための捷径なのである。
最近よく「ウィン=ウィン」という戦略が外交の場で口にされるが、こういう言葉はすぐに一人歩きするから注意が必要である。
実は、いちばん合意形成にもってゆきやすいのは「ルーズ=ルーズ」ソリューションなのである。
またまた話があらぬ彼方へ行ってしまったのでもとへ戻す。
ことのはじめに学習指導要領の「弾力的運用」に踏み切った現場の校長や「見て見ぬ振り」をした教育委員会の諸君は、多少とでも「和尚吉三」的エートスを残していたように私には思われる。
文科省と生徒の間に立って、「これで高を合わせておくんなせえ」と「手打ち」をもちかけたのである。
ことが発覚して、糾弾された場合には潔く「両腕」ならぬ辞表くらい差し出す覚悟はあったであろう(希望的観測)。
法規の弾力的運用が許されるのは、そのような仕方で固有名をもった個人がおのれの「生身」を担保に置く場合だけである。
誰も責任を取る人間がいない「法規の弾力的運用」は単なる違法行為である。
責任を取る気のある人間は「ばれた場合に300時間の補習が必要になる」ような「度の過ぎたルール違反」はしない。
とてもじゃないけど、責任の取りようがないからだ。
こんなルール違反ができるのは「はなから責任を取る気のない人間」だけである。
責任をとるつもりでいる人間が自前の「生身」を差し出している限り、「常識的に考えてありえない」ような「度の過ぎた」ルール違反はなされない。
「度が過ぎる」のはいつだって「前任者からの申し送り」を前例として受け容れ、その違法性について検証する気のないテクノクラートたちである。
彼らの罪は重い。
政府の「救済措置」は「この先、現場に勝手はさせない」という約束とのトレードオフとして提供された。
行政にしたらこれは「たいへんにお安い買い物」だろう。
なにしろ、これで全国の教育委員会と校長たちの首根っこを押さえたのである。
この先政治がどれだけ教育現場に口を出しても、もう現場は「私たちを放っておいてくれ」とは言えない。
「ん? 放っておいた結果、キミたちは何をやらかしたのかね?」と押し込まれたら二の句が継げないからだ。
日本中の多くの都道府県の教育委員会と教師たちは、「政治判断によって生徒たちを救済してもらった」という大きな借りが政治家にできた。
だから、「これで教育基本法も教員免許制度も、現場の抵抗なしに乗り切れるぞ、わはは」と与党の文教族たちは満面の笑みで祝杯を挙げていることであろう。
間違いなく、今度の事件でいちばん利益を得たのは彼らである。
これから先、政治家たちは教育について言いたい放題のことを言い出すだろう。
無数の思いつき的な「教育再生案」が現場をとめどない混乱のうちに叩き込むことになるだろう。
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