ようやくレギュラーな生活に少しだけ戻ってきた。
会議が二つ、儀式が一つ(前期卒業式)、授業が一つ、稽古が二つ。
おお、なんというスリムな日程。
卒業式と授業のあいだに奇跡的に1時間ほど時間があいたので、クリエイティヴ・ライティングのレポートを読んで、本日分のレジュメ(6頁)を作成する。
本日のテーマは「ジェンダーと言語」。
これについてはかつて『女は何を欲望するか?』でフェッタリー、イリガライ、フェルマンのフェミニズム言語論を論じたことがあった。
何を書いたのかすっかり忘れてしまっていたので、本を書棚の奥から取りだして読む。
お、面白い!
こんなに面白い本を私は書いていたのか(この自己評価の法外な甘さこそ私の生命力の源である)。
まあ、フェミニズム言語論批判なんていうフレーム設定そのものがマネジメント的にはスカだったわけで、そんな本売れるわけないんだけれど、これは自分でいうのもなんだがよい本である。
よく「主著」というものを書かされる。
『ためらいの倫理学』と『寝ながら学べる構造主義』と『レヴィナスと愛の現象学』と『他者と死者』の四つはとりあえず「主たる業績」として思いつくのだが、『女は何を欲望するか?』はかつて一度もリストに載せたことがなかった。
理由は簡単で、径書房のO庭くんがすごく急かしたのである。
もっと推敲したかったし、もう少し構成のバランスも整えたかったのだが、「営業のつごう」とかで(私として)未完成の草稿がそのまま活字になってしまったのである。
もっといいものが書けたのに・・・という憾みが残って、本のことを記憶から消去していたのであるが、4年ぶりに読んだらたいへん面白かったのである。
O庭くんには当時「もっとよい本ができたのに・・・」と悔いに枕をぬらしたりして、まことに済まないことをした。
私が後悔で枕を涙でぬらしてもO庭くんには何の実害もないのだから、「済まない」というのは筋違いではないか・・・という疑念をもたれた方が今いたであろう。
甘いね。
諸君。
私を怒らせるのはぜんぜん構わないが、私を悔悟させたり反省させたりすることは禁忌なのである。
私を怒らせた人間は私を怒らせることがもたらす災厄がどのようなものであるかただちに現認することができる。
当然、目に見える災厄である以上、それを回避することも、反撃することも、しかるべき筋に調停を求めることも、あるいはベリーニのケーキや札束などを投じて難を逃れることも可能である。
しかし、私を反省させた場合、そのやり場のない抑圧された怨念は現認できない形象を取る。
私がまくらをぬらす一滴の涙は「生き霊」となって、千里を走り、その人を撃つことになる。
これは私にも止めることができぬ。
だって「生き霊」なんだから。
「バカヤロー」という態の怒りのかたちをとる憎悪は御しやすい。
だが、「あの人を憎んではいけない。すべては私の不徳から出たことなのだ」というふうに自らに非ありとした場合、否定された「不徳」は生き霊になって時空を超えて悪逆の限りを尽くすのである。
『葵上』でご案内のとおり、生き霊は六条の御息所が「他人を憎まぬ、よい人でありたい」と無理に念じたせいで生成するのである。
主人格が「よい人」では、嫉妬のほむらは引き受け手がなくなる。
引き受け手のいない憎悪ほど始末に悪いものはない。
六条の御息所が「葵上のビッチビッチビッチ、マザファッカ」というような態度の人であれば、葵上はまるっと無事だったであろう。
現にサミュエル・“マザファッカ”・L・ジャクソンがあのようにつるつるとしたお肌で、たいへん健康そうであり、家庭円満、交友関係、契約関係などもさして問題がないように見えるのは(実情はオークランドのマチヤマさんに訊かないとわからないが)、「生き霊」をすべて「マザファッカ」記号に変換してリリースしていることが深く与っていると私は見ている。
ま、それはさておき。
「ジェンダーと言語」というお題で授業ではお話させていただいた。
ナバちゃんと絶妙のかけ合いで授業は進行し、終業の鐘が鳴ったまさにそのとき、ナバちゃんが「私たちのエクリチュールを駆動するものは・・・」と本日の結論の主語部分だけを述べて、後半を優雅なめくばせで私に振った(”Take it, Phil” @Paul McCartney)。
私はにっこり笑ってこう続けたのである。
「愛だよ、愛」
うーむ。そうきたか。
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(2006-10-31 10:14)