教育破壊はどこまで続くのか

2006-10-26 jeudi

富山県立高校で発覚した履修単位不足問題は全国に飛び火して、少なくとも30000人の高校三年生が単位不足であることがわかった。
各校は冬休みなどを利用して、補習を行い、単位を確保する予定だが、200回以上(一回50分)の補習をこれから卒業までに行わなければ間に合わないケースもあり、現場は混乱の極にある。
この種の架空履修はすでに90年代から行われており、すでに卒業してしまった生徒については遡っての卒業取り消しはしないそうである。
ほおほお。そういうことをしていたわけですか。
必修の世界史をネグレクトしたケースが多い。
世界史は覚えなければいけないことが多い、というのがその理由だそうである。
なるほどね。そうだったのか。
大学生諸君が世界史の年号どころか世界史的事件について話しても、みんな「きょとん」としているのを不思議に思っていたが、そのせいであったか。
「ウェストファリア・システム」と言っても誰も反応しない。
「米西戦争」というようなものがあったことを知らない。
「ハワイの併合」の事情を知らない。
「フィリピンの独立宣言がアメリカ下院でなされたこと」も知らない。
「インドシナ半島をフランスと日本が共同統治していたこと」も知らない。
たしかにこれくらいものを知らなければ人類の歴史は「グッドガイ」と「バッドガイ」の二極のあいだの戦いであるというパッパラパ世界史認識に着地してしまうのも致し方あるまい。
若い方のあいだにナショナリズムがさかんな理由にも納得がいった。
世界の歴史を知らない夜郎自大こそナショナリズムの培養基だからである。
え?「夜郎自大」の意味がわからない?
あのね、むかし西域に「夜郎国」という国があったの。
ま、あとは世界史の参考書で調べなさい。
勉強なんかしなくても、必要があればネットでなんでも調べられると豪語する若者がときおりいるが、私はそういうものではないと思う。
検索するためには検索のためのキーワードを知っていることが必要だ。
しかし、そのキーワードそのものを知らない事項については、検索することができない。
「学ぶ」というのは、キーワード検索することとは別のことである。
自分が何を知らないかについて知ることである。
自分の知識についての知識をもつことである。
それは「知識をふやす」ということとは違う。
「知識をふやす」というのは「同一平面上で水平移動域を拡げること」である。
「知識についての知識をもつ」というのは「階段を上がること」である。
ぜんぜん違う。
学校というのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。
一方、受験勉強は「自分が何を知っているか」を誇示することを生徒たちに強いる。
たくさんの教科を学校が用意しているのは、ほんらい生徒たちに「自分が何を知らないか、何ができないか」を知らせるためである。
世の中には自分の知らないことがたくさんあるんだ・・・と思うことができれば、それだけで学校に行った甲斐はある。
しかし、受験勉強は「自分にできること」に特化することを子どもたちに強いる。
もちろんそれにも意味はある。
それは「自分にできること」があれば、「自分にはできないこと」ができる人々とのコラボレーションを立ち上げることができるからである。
「自分の知らないこと/自分にできないこと」の中に位置づけられてはじめて「自分が知っていること/自分ができること」は共同的に意味をもつ。
だから、「自分の知らないこと」は「知る価値のないことだ」というふうに思い込む子どもを組織的に作り出しているのだとしたら、そんな学校は存在しない方がましである。
「架空履修」をした学校の教師たちは、そのような危険な思い込みを生徒たちに刷り込んでいたことに果たしてどれだけ自覚的であったのだろうか。
現に、これから始まる受験のハイシーズンに受験と無関係の教科の補習を強いられる生徒たちの多くは激怒している。
「そんなもんのためにこのくそ忙しい時に学校になんか行ってられっかよ」と多くの受験生たちは思っているだろう。
思って当然である。
「受験に不要な科目なんか勉強しなくていい」という考え方に同意を与えたのは当の学校だからたちである。
おそらく相当数の受験生はこのあと行われる補習をずる休みするだろう。
そのとき、教師たちに「ずる休み」した生徒たちを単位不足で留年させるだけの覚悟があるだろうか。
私は「ない」と思う。
「大学に受かりさえすれば、学校なんか来なくていい」「受験に関係ない教科は勉強しなくていい」という考え方を学校が公認していた以上、その「教え」に素直に従う生徒たちを罰する倫理的優位性は学校にはない。
しかし、私は教師たちだけを責めるのは気の毒だとも思うのである(これだけ責めておいて、いまさら何であるが)。
彼らだって受験のために履修に歪みが生じるような教育計画を進んで立てたわけではないだろう。
学習指導要領で手足を縛られ、その上大学受験の合格実績の数値目標が示され、それをクリアーするためには文科省を騙すしかない・・・という窮地に追い詰められての苦衷の選択であったという台所事情を私とて理解できないわけではない。
文科省の示すガイドラインが現場の実情と隔たることすでに遠いものであるということは間違いのない事実である。
21 日の共同通信はつぎのような記事を配信している。

「ゆとり教育」の見直しなど、政治主導で目まぐるしく提案される教育改革について、全国の公立小中学校の校長を対象に聞いたところ、回答者の85%が「速すぎて現場がついていけない」と感じていることが21日、東大の基礎学力研究開発センターの調査で分かった。調査は同センターが7、8月に全国の公立小中学校の3分の1にあたる1万800校の校長を対象に実施。約4800校の回答(一部は教頭らが回答)を得た。

教育基本法改正案には66%が反対。「教育問題を政治化しすぎ」も67%に達した。教育改革を最重要課題とする安倍晋三首相が教育再生会議を始動させる中、格差拡大の懸念も大きく、現場に強い抵抗感があることが鮮明になった。
「教育改革が速すぎて現場がついていけないと考えるか」との質問に「強く思う」と答えたのは30%、「思う」は55%で、「思わない」「全く思わない」の計15%を大きく上回った。「教育改革は、学校が直面する問題に対応していない」と答えたのも79%と圧倒的多数だった。
中教審が教員の質確保のために導入を答申した教員免許の更新制は再生会議でも重要テーマの一つ。だが、これに賛成する校長は41%止まりで、59%が後ろ向きだった。
安倍首相らが再三口にする「学力低下」。だが20年前と比較して子どもの学力が「下がった」とする校長は47%で「変わらない」「上がった」の計53%を下回った。
どちらかといえば教育委員会寄りで、文科省の方針に親和的な人間が校長になりやすいということは周知の事実である。
そのような条件を勘定に入れた上でこの数値を見れば、現場の苛立ちと内圧がほとんど「爆発寸前」にまで高まっていることを政府はそろそろ察知すべきではあるまいか。
と書いたあとに今朝の新聞を開いたら、「子どもや保護者との関係のむずかしさや学校運営上の心理的な負担増などが原因で、強い抑鬱感を訴える男性教職員が11.5%に上り、国内標準値の1.8倍にあたること」が判明したと毎日新聞のトップに出ていた。
「教育再生」でこの数値はさらに危機的な水域にまでのぼることになるだろう。
もちろん、政府はそのときには「抑鬱傾向の教師をスクリーニングして排除する」政策を採用して、引き続き現場のストレスを強化することで問題解決をはかるのだろう。
エンドレスの「教育破壊」はどこまで続くのであろうか。
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