クリント・イーストウッドとヴォーリズと桑田乃梨子な一日

2006-10-25 mercredi

めぐみ会大阪支部のお招きで講演をすることになる。
めぐみ会支部に呼ばれるのは二度目である。
去年は京都支部で教育崩壊のお話をした。
今回は「たのしい映画のはなし」という条件がついているので、映画評論家としての講演である。
めぐみ会というのは本学の同窓会である。
会員二万余を数え、震災の直後にまたたく間に10億円の寄付金を集めてみせたその組織力と母校に対する忠誠心の深さは、『大学ランキング』に「同窓会の結束の堅さ」のランクがあれば、間違いなく全国ベスト10に入るであろう。
これは個別的な教育プログラムや個別的な教師に対する恩愛の表現ではなく(多少はあるが)、主に「神戸女学院」という幻想的共同体の放つ霊的オーラの効果であると私は考えている。
とういわけで、講演のお時間の最初に、この「オーラ」がどのように形成されてきたのかについて若干の歴史的考察を加えるところから始める。
すでに何度も申し上げたとおり、これには「岡田山を呪鎮する霊的バリヤー」と「ヴォーリズ設計の〈秘密の花園〉的ミステリアス建造物」が深くかかわっている。
仮に、かつて某シンクタンクが提言したように、岡田山の土地を売って、それを原資に三田の山中にウルトラモダンなキャンパスを建設した場合、このオーラはおそらく致命的なダメージを受けたはずである。
現に同窓生たちは定期的に岡田山に足を運ぶ。
それはそこに彼女たちが通学していたときと同じ風景、同じ校舎、同じ空気が厳重に保持されているからである。
キャンパスを「近代化する」という構想はこれまでも経済合理性に基づいて大学経営を考える人々からは繰り返しからは提言されたはずであるが、教職員の過半と同窓会はこれをかたくなに拒んできた。
それを単なる懐古趣味だと思っている人もあるやもしれぬが、そうではない。
このキャンパスにはある種の「聖なるもの」が封印されている。
私ははじめてこの大学を訪れたときに、それを感じた。
それはシャルトルの大聖堂や比叡山根本中堂で感じられるものに少し似ている。
個別的な宗派の違いを超えた「聖なるもの」の静かな脈動がここには感じられるのである。
この土地は同窓会の寄贈である。
70年前に旧尼崎藩主の別邸のあった岡田山をキャンパスのあるべき場所として選定した同窓生がどなたであるか、私は知らないけれど、彼女(たち)がたいへんにすぐれた霊的感受性の持ち主であったことは疑いを容れない。
そして、ヴォーリズもまたそれを感じることのできるだけの感受性を持った建築家であったから、彼はこの丘陵に南欧の修道院をモデルにしたきわめて宗教的なたたずまいをもつ校舎を設計したのである。
ヴォーリズの初期の設計プランの中には「日本風」という考想も含まれていた。
いまの図書館本館を「天守閣」風にアレンジした設計図が残っている。
その場合、文学館理学館総務館は「三十三間堂」のようなかたちではなかったかと想像される。
教室が書院みたいな大学である。
それはそれで「あり」じゃないかという気がしないでもない。
学生たちは白足袋を穿いてするすると畳敷きの廊下(松の廊下みたいな)を歩くのである。
うん、悪くない。
たぶん当時のアメリカ人院長たちが「ヴォーリズさん、それはちょっとやりすぎでは・・・」ということでボツになったのであろう。
まあ、おかげで21世紀まで不便なく使える建物になったのだから、その判断は正しかったのである。
というような話はせずに、ヴォーリズの建築物とクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』の関連についてお話する。
クリント・イーストウッドはおそらくあと50年くらい後の映画史の教科書では「20−21世紀における最高のフィルムメイカー」として記憶されることになるであろう。
どうしてそうなるかというと・・・
これは本日来られためぐみ会大阪支部の方と、来月の「エピス」を読む方にしかわからない話なのである。ごめんね。

50分ほど映画の話をしてから、めぐみ会のみなさんとフレンチのお昼ご飯をいただきつつ、さらに駄弁を弄する。
今日も80人ほどの女性の中に私一人が男という構成であった。
どういうわけか、子どものころから、「気がついたら、まわりがみんな女の子で、ぼくひとり男の子」という状況によく出会う。
そういうときにはなぜか「水を得た魚のよう」に自由な気分になる。
私が「男は女を排除し、男だけのホモソーシャルな共同体を構築することを欲望する」というジェンダー論の命題にどうしても同意できないのはそのためである。
私は同窓会の人々といるときに自分の中にある種の「シスターフッド」が活発に作動しているのを感じる。

家にかえってから三ノ宮に出て、次の謡のお稽古の『花筺』を購入。
ついでにマンガ本を大量購入。
井上雄彦と江口寿史と川原泉と桑田乃梨子。
JR に乗って、とりあえず紙袋から桑田乃梨子を取りだして貪り読む。
車内の人々がけげんな視線で私をみつめるのがわかる(知ったことか)。
私は極度の近視なので、眼鏡がないと本を顔にくっつけるようにして読むしかない(かつて青山さんにその異常な風体を見とがめられたことがあるが)。
桑田乃梨子のマンガを耽読する中年男の姿は人々の眼にどのように映ったのであろうか。
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