学校のことは忘れて欲しい

2006-10-21 samedi

平川くんがめずらしく教育について発言している。
その趣旨のすべてに私は賛成である。
一部を再録する。

中学校では問題児で、高校で落ちこぼれ、大学で教室に座っていた時間はほとんど無い俺にとって、教育について何か考えるというのは、盗人が人の道を語るような気恥ずかしさと後ろめたさがあって、まあ、できればスルーしたい話題である。
それでも、テレビも新聞も鬼の首でもとったように、嬉しそうに九州の教諭を叩き、教育現場の荒廃を憂うる図を見ていると、「素っ頓狂なこと言ってるんじゃねぇよ」と言いたくなる。
筑前では、同町役場にメールや電話が殺到、17日までに2500通を超えたそうである。
大半が町や不適切な言動をしたとされる元担任への抗議や中傷だという。
現場で実際に何が起こっていたのか、その空気は良くわからない。
だから、この元担任の教師を庇い立てするつもりはないけれど、彼に対する抗議や中傷こそがいじめっていうものではないのか。
多くの人が勘違いしているが、
いじめは正義感の欠如によって起こるのではない。
反対である。正義が多数と結びついたところに、いじめが起こるのである。
いじめが頻発しているような教育現場の荒廃があるから、「規範意識や情操を身につけた『美しい人づくり』」@安倍晋三が実現しないのではない。
反対である。
社会の規範意識や情操が希薄化しているから、教育の現場もそれを模倣するのである。

まったく間然するところのない指摘である。
平川くんと私は小学校のときにコンビの多動性の学習障害児であった。
さいわい私たちの担任であった T 嶋先生は炯眼にも私と平川くんを隣同士に、かつ教卓のすぐ前の席に座らせておくという奇手を思いついた。
おかげで私と平川くんは相互に学習を妨害しあうというかたちでエネルギーを発散させ、余剰エネルギーが他の級友の身に及びそうになると先生は愛情のこもったヘッドロックやフルネルソンをかまして黙らせるという適切な処置を取ったので、級友たちの安寧は維持されたのである。
まことに行き届いた恩師であった。
その後も多動性の学習回避行動は癒えぬままに、気づいたら教師になってしまった私であるが、学校教育について自信をもって言えることは、平川くんと同じく、「学校教育の現場は社会における支配的イデオロギーが濃縮されたかたちで瀰漫する場所であり、子どもはその社会における支配的イデオロギーにもっとも深く浸潤された存在である」ということである。
もし理想的な教育を行おうとしたら、子どもをその社会における支配的なイデオロギー(それはしばしば教師や親をも共軛している)から隔離するか、あらゆるさまざまなイデオロギーや宗教や因習が共生できる理想的な社会を作るか、二つに一つしか方法はない。
もちろん学校の方が社会よりも小さいので、こちらをいじる方が話が早い。
それは学校を「ありうべき未来社会の萌芽形態」として先取りすることである。
つまり、「さまざまなイデオロギーがにこやかに共生する場所」とすることである。
教師たちの教育理念が異なり、教育方法が異なり、教育の達成目標が異なることが許容されている学校があれば、それこそが想像しうる最良の学校であろう。
理想的な教育というものがあるとすれば、それは「理想的な教育はありえない」という涼しい断念の上にしか築かれない。
過去35年、文部省、文科省が音頭をとって進めてきたすべての教育改革は失敗した。
これだけ失敗したら、文部官僚たちもいい加減学習してもよいのではないか。
それは「上からの斉一的な教育改革」という発想そのものが教育を破壊するという事実である。
考えてみればわかる。
「理想のたこ焼き」というものをつくり出したいとする。
あなたならどうします。
「理想的なたこ焼きレシピ」を衆知を集めて作成し、「理想的なたこ焼きマシン」を作成して、全国のたこ焼き屋に配布し、それ以外のたこ焼き作成を禁じ、全国津々浦々どこでも「同じ味のたこ焼き」が食べられるようになれば、それで日本の食文化の水準が上がったと誇らしげに言う人間がいるだろうか。
いるはずがない。
あらゆるところでレシピが違い、道具が違い、焼き加減が違い、トッピングが違い、値段が違い・・・という「でたらめさ」がたこ焼きの質的向上と不断のイノベーションを可能にしているということに誰でも気がつく。
どうして「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに、「人間」については、同じことをお認め頂けないのか?
私にはその理路がわからない。
人間もたこ焼きも一緒である。
「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。
当たり前のことである。
「ありうべき教育」がどのようなものであるかは「こちら」で決めるから、教師たちはそれに従うように、という教育行政のあり方そのものが教育をダメにするのである。
安倍内閣は仄聞するところでは教育改革にたいへん熱心であるらしい。
教育基本法を改定し、教師の資格制度を整備し、学習指導要領を緻密化し、教育委員会による教師たちの統制と支配を強化する・・・という施策は「ありうべきたこ焼き」を全国のたこ焼き屋に作らせるために、「たこ焼き基本法」を整備し、「たこ焼き士」認定制度を作り、「たこ焼き作成要領」を法整備し、「たこ焼き監視官」を全国に網羅的に配備して、「青のりの散布量が標準値よりも少ない」たこ焼き屋を摘発するのとまったく同じことである。
申し上げるけれど、そんなことに行政的なリソースを割くのは、税金をドブに棄てることに等しいであろう。
それによって教育が今より少しでもよい方向に行く可能性は限りなくゼロに近い(「ゼロである」と言い切れないのは、教育改革のあまりのばかばかしさに全国民が気づいて「もうこんなのやめようよ」と言い出す方向に棹さす可能性を否定できないからであるが)。
私は「教育はいかにあるべきかに」ついて首相官邸にいるどの政治家官僚よりも長い時間考えてきている。
これについては自信がある。
その私が言うのだから、信用して欲しい。
日本のたこ焼きのレベルを上げようと思ったら、たこ焼き屋に創意工夫をするフリーハンドを与えることが最良の方法である。
教育も同じである。
政治家と官僚たちは(ついでにメディアの諸君も)お願いだから学校のことは忘れて欲しい。
あなたがたが学校のことを忘れてくれたら、それだけで日本の教育はめざましい復活を遂げるであろう。
それは私がお約束する。
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