会議を短くする方法について

2006-10-19 jeudi

ようやく風邪が治ったようである。
一昨日大学院の演習を中断して会議に呼ばれて、4時間半の長丁場に付き合ったせいでいっとき生命力が衰えたけれど、昨日たっぷり眠って、三宅先生にごりごりしてもらって昼寝をしたらようやく調子が回復してきた。
やれやれ。
それにしても会議が長いのは困ったものである。
会議が長くなるのは理由がいくつかある。
議題にしなくてもいいことを議題に挙げると会議は長引く。
「全会一致的合意」を求める傾向の強い人(言い換えると、穏和で気配りの行き届いた人ということであるが)が議長になると議題がふえる。
「なもん黙ってやっちゃえばいいんすよ。どうせみんなにゃわかりゃしませんから」というような態度の悪いことを言い募る人間(私のような人間)が議題の立案過程に参加していると議題は有意に減じる。
それによって会議時間はたしかに短縮されるが、組織の運営が非民主的になることは避けがたい。
うまくゆかないものである。
議題が少ないのに会議が長引くこともある。
その場合は「会議で採否を決めないことで採否を決める」戦略が採用されている可能性を吟味した方がいい。
採否を決めないことで採否を決するということが可能なのか?と疑問を持つ方がいるであろうが、これは可能なのである。
会議が長引くと「これだけ議論していても何も決まらないなら、他の議決機関に負託しましょう」ということを言い出す人間が必ず出てくる(私もしばしば提案する)。
ナントカ委員会に回付しましょうとか、ナントカ委員長に一任しましょうという言葉は長い会議で疲労しているときには甘露のように甘い響きを持つ。
もうこれでこの不毛な議論から解放されるのか・・・と思うと、みんな喜んで「そうしましょ」ということになる。
「他の議決機関」での採否の方向がある程度読めている場合には、ここで「賛否の決議をしない」ということは、実際には賛否の決議をしているのと同じことになる。
この「採否を決さないというかたちで採否を決する」というやり方は、日本社会においてはそれなりに一般的なものなのであり、劫を経たおじさんたちの中にはこの術を駆使する人がいるから、若い人たちは心しておくように。
私はあらゆる「戦略的なもの」に対して総じて好意的なので、こういうマヌーヴァーはもちろん「あり」だと思う。
ただ、「時間を引き延ばして、みんなを疲弊させることを主な目的とする会議」に出席する機会はできるかぎり避けたいと願うだけである。
いずれにせよ、私は会議に長い時間をかけることが「正しい選択」を導出する上で有用であるとは考えない。
人間は非常にしばしば熟慮の果てに、「これこそが正解だ」という深い確信に領されて、誤った選択をするということを私は経験的に知っているからである。
会議で長時間議論しても、短時間の議論でも、正解を逸する確率には残念ながらほとんど差がない。
むしろ、長時間議論して誤った結論を得た場合の方がそのあとの被害は大きい。
というのは、あまりに熟慮し、眦を決して、かつ満場一致で採決などしてしまうと、それがあきらかに間違った選択であることが事後的にわかっても、なかなか訂正ができないからである。
すぐに訂正すれば傷が浅くて済むのに、誤りを認めると「面子がつぶれる」という人が多いと、補正の必要がわかっていながら、補正ができない。
そのままどんどん被害が拡大する。
これがいちばん困る。
それくらいなら、即断即決で「あらよっと」で決めた方がずっとましである。
深く考えないで下された決断については、その撤回と補正についての抵抗が少ないからである。
「誰だよ、こんなバカな提案をしたのは」
「ウチダさん、あんたですよ」
「・・・」
というような展開になると誤謬の補正は一秒で済むのである。
だから、ものを決めるときにたいせつなのは、「ベストの選択をする」ことではない。
お若い方にはぜひこのことをお覚え願いたい。
「人間はしばしば誤った選択をする」という可能性を織り込んでおいて、「誤った選択」がもたらすネガティヴな影響を最小化する道筋をつけておくことの方が「絶えずベストの選択をし続ける」ことよりもずっとずっと重要なのである。
このことを理解している組織人はきわめて、哀しいほど少ないけれど。
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