興味深い記事が今朝の朝刊に二つ出ていた。
ひとつは松本和子早稲田大学教授の研究費の不正使用についての記事。
松本教授は架空のアルバイト料として研究費1500万円を不正受給。うち900万円を投資信託で運用。バイオ系ヴェンチャーと2500万円の架空取り引きも発覚。不適切使用の疑いのある研究費の総額は3億円にのぼる。
その他にも共著論文についての不正疑惑も浮上している。
大学教授の「データ捏造」と「研究費不正使用」の記事を見ない日はない(というのはオーバーだけれど)、「見ない週はない」くらい頻繁に報道されている。
こういう場合は、
(1)もともとこういう事件は日常的にあったのだが、たまたまその事件が話題になっているので、優先的に報道されている
(2)もともとはあまりなかったのだが、最近急に増えた
のいずれであるかについて考えてみる必要がある。
教師のわいせつ行為とか、警官の不祥事とかは、(1)なのであるが、あまりに日常的に頻発している事件なのでニュースバリューがない。
たまたま話題性があると判断するとメディアは「洪水的」に報道するので、読者は「わ、こんなに急に」とびっくりしてしまうのである。
でも、ふだんからそういうものなのであるから驚くには及ばない(だから安堵するということでもないが)。
大学教授のデータ捏造や研究費の不正使用は(2)である。
これは文科省が音頭取りをしてはじめたあの「自己評価・自己点検活動」のマイナスの成果だと私は見ている。
自己点検・自己評価というのは、要するに教員の業績や能力をカタログ化し、標準化し、数値化することである。
フーコーだったら「権力を内面化すること」と言うだろうけれど、そのこと自体は特に悪いことではない(人類社会ができてからずっとやっていることだからだ)。
けれども教師の活動を網羅的にカタログに記載して、それを単一の度量衡で計測して、順位をつけて、予算を傾斜配分するということになると、たいていの人間は数値をふやすことそれ自体を自己目的化してしまう。
内容はどうでもいいから、とにかく数字を、ということになる。
本学でも私が自己評価委員長のときに、教員評価システムを導入して、活動についての外形的な評価をしようという提案をしたら、何人かの教員から「そんなことをしたら、数値だけふやそうとする教師が出てくる」という反対意見があった。
私はぜんぜん意味がわからなかったので、きょとんとしていたが、これは私が不明を恥じなければならない。
世の中には研究それ自体に愉悦を見出すことのできない研究者が想像以上にたくさんいたのである。
理科系は外形的な数値を重んじる傾向が強い(人文系の場合は、論文を10年に一本しか書かない教師が「私の論文は一本でふつうの学者の論文の10倍の価値がある」というような妄言を言い募っても、誰も咎めないから、数値化自体が無意味なのである)。
理系の場合は、データを捏造しても、とにかくはやく国際的なジャーナルに投稿して論文点数を稼がねば、という焦慮が出てくる。
理系の研究には金がかかるからである(人文系の場合は研究にあまりお金がかからない。私などは毎年大学からいただく研究費の大半を使い残している。昔買った本を読み返すのと、面白い人と会って話をするのが私の「研究」のすべてであるので、あまりお金がかからない)。
理科系の場合は、金がなければ研究が進まないので、投資信託でも株式運用でも賄賂でも、とにかく研究費を確保して、しかるべき研究成果を出せば「結果オーライ」という手荒な研究体制に傾きがちな方もおられるのである。
気の毒だが、なにしろ国立の理系の場合、年間研究費が15万円(!)というようなところもある。
これでは、コピー代も出ない。
研究費が要るなら、外部資金を導入できるような研究をしてみろ、と上の方は凄むのである。
外部資金が導入できない研究は要するに社会的ニーズがないのだから、さっさと止めてしまえ。停年まではただ飯を食わせてやるから、もう無意味な研究はするな。
そう言われている理系教員がおそらく日本中に何千人がいる。
そういうふうに「市場原理」を導入したことが大学における研究を活性化したかのか、それ以上に堕落させたのか、これについてはそろそろ損得勘定を始めてもよろしいのではないか。
もう一つ興味深かったのは靖国神社境内の戦史博物館、遊就館が米国から批判の出ていた第二次世界大戦の米国関係の記述を改めることを決定したという記事。
変更するのは「ルーズベルトに残された道は資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要することだった。参戦によって米経済は完全に復興した」という記述である。
神社は駐日アメリカ大使の批判を受けて、「開戦の強要」「米経済の復興」などを削除することを決定した。
その一方、中国関係の記述については見直しの予定はないそうである。
繰り返し申し上げるように、東京裁判を仕切ったのはアメリカである。
アメリカ人将兵29万人の死について有責であるとして A 級戦犯たちを告発したのはアメリカである。
そのアメリカがどうして同盟国の首相がその A 級戦犯たちを祀る靖国神社に公式参拝することにきびしく抗議をしないのか、その理由は一つしかない。
アメリカが抗議しないのは、もし首相の靖国参拝に国務省が正式に抗議して首相が靖国参拝を中止した場合、それがきっかけで日中日韓の歴史問題が「解決してしまう」かもしれないからである。
アメリカにとっては同盟国首相が東京裁判の判決を不服としているという心情的な不快と、東アジアに日中韓ブロックが形成されるという地政学的な損失を比較考量して、後者を優先したのである。
だから、アメリカは「アメリカについての記述」についてのみ限定的に削除を求め、中国についての記述は放置したのである。
遊就館の歴史観そのものをアメリカが批判した場合には、中国についての記述も訂正を求めないと話の筋目が通らない。
だが、そんなことをしたら、せっかく形成された日中日韓の緊張関係が緩和してしまうかもしれない。
そんなことになっては1853年からの東アジア経営に注ぎ込んだ帝国主義的リソースの元が取れない。
だから、アメリカは区々たる文言だけにクレームをつけて、東京裁判を否定する遊就館の「歴史観」そのものは手つかずに置いているのである。
中韓にはどのような失礼を言っても許すが、アメリカにはふざけた口をきくなよと釘を刺したのである。
中国韓国の言い分には決然として耳を貸す気のない靖国神社はアメリカのこの抗議にはただちに頭を下げた。
それについて素朴な疑問がある。
「アメリカと戦って死んだ英霊たち」は靖国神社のこのアメリカに対する対応をどう思うであろうか。
私は死者が何を考えているのかわからないという立場にあるので、英霊たちの反応についても想像がつかない。
英霊たちがどのような弔い方を望んでいるのか熟知していると主張している宮司たちのことだから当然答えはご存じなのであろう。
で、英霊たちはこれについては何と?
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(2006-10-06 21:59)