後期の授業が始まった

2006-09-27 mercredi

後期の授業が始まった。
休み中より生活がレギュラーになった方が身体は楽である。
授業をするというのは私にとっては少しも苦にならない。
むしろ楽しいことである。
特に、私の場合はもうあと4年ちょっとで「上がり」であるから、授業をする機会も指折り数えてカウントダウンである。
あと9セメスターで「終わり」かと思うと一回一回の授業がかけがえないものに感じられる。
四年半というのは長いようだけれど、逆算すれば2002年の前期から先日までの期間である。
2002年の前期といったらついこのあいだではないか。
30 年間よく働いたものである(まだ終わってないけど)。
「この会議飯もあと何回食べられるのかしら・・」と思うと、冷たい会議弁当も美味しく感じられるから不思議である(これはほんとう)。
辞めたあとは、きっと「あれもやりたかった、これも教えたかった、こんなプロジェクトも立てたかった・・・」といろいろ悔悟が残るのであろう。
私は若いときは「若いんだから好きなことさせてくれよ」と言い募り、ある程度の年になると「もうすぐ死ぬんだから好きなことさせてくれよ」と言い募り、結局人生のあらゆる局面で「好きなことやらせてくれよ」と言い続けて、その通りに生きてしまった人間である。
そして、このまま大過なくあと四年半いけば、晴れて「隠居」の身である。
隠居になれば、もう天下御免、怖いものなしのやりたい放題いいたい放題である。
ウチダさんはこれでもまだなにかいいたりないことがあるんですか?と驚かれる方もあるやもしれぬが、なにをおっしゃいますやらである。
私がこのブログに書き連ねていることは、毒気が三分の一程度に希釈され、市民的温顔をつくろった苦心の修辞的構築物である。
ほとんど一行書くたびに、「おっと、私にも立場というものもあるから自制しなきゃ・・・」と文言を訂正しているのである。
晴れて大学を辞めたあとに、諸君はどれほどの心理的規制に私が耐えていたのかを知るであろう。

最初の授業はいきなり新規開講の「クリエイティヴ・ライティング」である。
これはキャリア・デザイン・プログラムの「メディア・コミュニケーション」科目群に将来的に組み込まれるべきもので、いずれ「物書き」として働くことを希望している学生諸君とともに「書くとはどういうことか」についてラディカルかつテクニカルに考究しようではないかという野心的プログラムである。
「現代霊性論」に続き、今回は難波江和英さんとのコラボレーション。
コラボレーション型授業のよいところは、「ねえ、この授業って、いったい何を目的とするものなの?」という、本来ならシラバスにきちんと書かれていなければならない問い(つまりすでに決着が付いているはずの問い)から授業が始まるという点である。
私たちは何のためにここにいるのか?
そういうラディカルな問いは通常の授業では立てられない。
それについては教える側も教わる側も「すでに知っている」ことになっているからである。
でも、ほんとうにそうなのであろうか。
「私たちはなぜほかならぬ今、ほかならぬこの場で、このような仕方で出会ったのであろうか?」という問いを学生たちとともに適切に突き詰めることができれば、それだけで教育目的の過半は達成せられたと私は思っている。
私はシラバス的な教育プログラムに懐疑的なのは、そのいちばん「おいしいところ」を「既知」に括り込んでしまい、学生がみずからそれを問う機会を奪ってしまうからである。
もちろんシラバスにもそれなりの教育的効果はある。
けれどもそれはそれがジョブ・デスクリプションであり、学生と教師のあいだの労働契約であるからではなく、「教師はゲームが始まる前に、すでにゲームの結末まですべてを知っている」という幻想を学生が持つことにはいくばくかの教育的効果があるからである。
しかしシラバス抜きの授業というのは、もっと教育的である。
なぜなら、教師も学生もともに自分たちがどこにゆくのかを知らないままに授業が始めたということになっているにもかかわらず、「どうも、教師たちは行き先を知っているように見える」からである。
「教師は彼が知っていることを知っている」というのでは教育的に十分ではない。
「教師は彼が知らないことも知っている」という幻想を学生が持つことが「学び」の場には決定的に必要なのである。
だから教師は「知らない」という言葉を惜しんではならない。
「知らない」という言葉を惜しむ教師は、「知っていること」しか教えられない。
「知らない」という言葉を惜しまない教師は、「私はそのことを知らないが、そのことを諸君に教える用意がある」というアクロバシーを演じることができる。
そして、「学び」が畢竟するところ「『私が知らないこと』のうちに自己解体を遂げつつ溶け込んでゆくこと」であるとすれば、それを教師自身が学生諸君に現場でお示しすること以上に教育的なことはあるまい。

最初の週の宿題は「異類憑依」。
つまり、本日の私とナバちゃんのおしゃべりについてのレポートを書いていただくのであるが、書き手は諸君自身であってはならない。
諸君自身ではない「誰か」に憑依して、この場の出来事をレポートするのである(例えば窓の外の UFO からこの授業を覗き見ていた地球外生命体や、あるいは部屋の隅からこの授業を覗き見ていたゴキブリなどの立場になって)。
遠くモンテスキューが『ペルシャ人の手紙』で先鞭をつけ、夏目漱石『吾輩は猫である』、大島弓子『綿の国星』と連綿と受け継がれている批評的エクリチュールの基本中の基本である。
女子大生である彼女たち自身のものの見方や書き方を無意識的に支配している無数の因習のうちのひとつでも解除できればと思うが、さて結果はどう出るであろうか。

火曜日のゼミはいきなり「存在と時間について」。
O草くんの研究発表は「時間は空間的に表象できるか?」「存在しないものはどのようにして存在するものに影響を与えるのか?」というたいへんにラディカルな問いをめぐるものであった。
訊けば哲学的な時間論というものを一つも読んだことがなく、ひとりで頭をかかえてうんうん悩み抜いて出した結論だそうである。
少しは先賢の仕事も知っておいた方が経済的であるが、いわば独力で「ピタゴラスの定理」を発見したようなものであるから、その労は多とせねばならない。
時間と「存在するとは別の仕方」について考えることが彼女自身にとって緊急の知的課題であったということが、それにしても驚きである。
だって、それは私がいま書いているレヴィナス三部作の第三部の主題そのものだからである。

大学院は「医療崩壊」。
医療現場で実際に仕事をしているN羽さんの「鬼気迫る」レポートに教室はしーんと静まりかえる。
日本人は自らの手でほとんど気が狂ったように医療を破壊しつつあるのだが、そのことによって利益を得る人間はひとりもいないことにいつ気づくのであろうか。
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