小泉首相が任期最後のパフォーマンスとして靖国神社に参拝した。
首相の靖国参拝については、以前、『文藝春秋』のアンケートに書いた数行に私の意見は尽くされている。それを再録する。
「隣国と正常で友好的な外交関係を維持することは重要な国策の一つである。戦没者の慰霊も国民的統合のために重要な儀礼の一つである。
どちらが優先すべきかについての汎通的基準は存在しない。
為政者は複数のオプションのうちどれがもっとも多くの国益をもたらすかを比較考量して、そのつど定量的に判断すべきである。ことの正否を一義的に決する審級は存在しない。
『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大であることについての首相の説明に得心がいけば私は靖国参拝を支持する。
私が首相の参拝を支持しないのは、自らが下した重大な政治判断の適切性を有権者に説得する努力を示さないからである。
自らの政治判断の適切性を有権者に論理的に説明する意欲がない(あるいは能力がない)政治家を支持する習慣を私は持たない。」
これが私のアンケートの回答である。
私が小泉首相に訊きたかったのは、「靖国参拝によって得られる国益」が「それによって損なわれる国益」よりも大であるという政治判断の根拠であった。
もちろん、彼はそれを私には教えてくれなかった(しかたがないので、私は反対したのである)。
それでも、私はたいがいの政治的主張については、頭ごなしにはねつけるよりも、私には思いつかなかったその理路を説明してもらうことの方に興味がある。
私が問題にしているのは、小泉純一郎個人のエモーションの純良さやその憂国の至情ではない。
どのような政治的効果をめざして、どのような政治的文脈の中でその行為を選択したのかについての「説明」だけを求めたのである。
もちろん、ある政治的行為を選んだ理由を決して説明しないということも一つの政治的行為である。そこまで含んでの政治的効果を狙っているということもありうる。
その場合は、「説明がなされない政治的行為」はなぜ説明がなされなかったのかについて考えなければならない。
それをずっと考えてきたのだけれど、小泉首相が東アジアとの外交関係を有利に展開するためにどのような深慮遠謀があったのか、ついに私にはわからないまま彼はその任期を終えようとしている。
メディアによると、「中韓に対して強い態度で臨むという外交オプションがありうることを示した」点が評価されている。
けれども、その評価は「中韓に対して強い態度で臨んだことによって獲得された外交的得点」と「それによって逸失された外交的失点」の貸借対照表を吟味する仕事につながらなければ無意味である。
政策ごとに獲得され逸失される「国益」の多寡を計量することはたしかに困難であるだろう。
けれども、この知的負荷の大きい仕事を率先して引き受けることが政治家や政治学者たちの責務ではないのか。
私は為政者が「ナショナリストのようにふるまう」ことはマヌーヴァーとしてしばしば有用であることを認める。
けれども為政者が「ナショナリストである」を喜ばない。
それは、ナショナリズムがほとんどの場合、知性の活動を低下させるからである。
若い人たちがナショナリズムに親和的になる理由の過半は、ナショナリストであることはそうでないことよりも政治的問題について考えるときの知的負荷が少ないからである。
ナショナリストと議論して誰でも気づくことは、彼らが固有名詞や年号やデータ的数値に総じて詳しいことである。
どうでもいいような法律条文やら誰も知らないような歴史的事実を持ち出してきて、「お前はこんなことも知らないで議論をしているのか(そんな人間には議論に参加する資格そのものがない)」というのは(洋の東西を問わず)ナショナリストの常套手段である。
固有名詞や数値に詳しいのは(政治学者や社会学者の場合もそうだが)、スキームがもう出来上がっている人間の特徴である。
「容れ物」の外郭が固定されると、人間はトリヴィアルな情報をいくらでも詰め込むことができる。
どのような新しいデータが入力されても、スキームそのものが変化する可能性がないという見通しが立ったときに人間は異様に記憶力がよくなるのである。
興味深いことに、これは非言語性学習障害の病像にも通じている。
非言語性学習障害の子どもはしばしば情報や事実の丸暗記(野球選手の生涯打率とか恐竜の名前と棲息期間とか)にすぐれている。
その代償に、彼らは「つじつまの合わないことを受け容れる能力」と「ユーモアを理解する能力」に大きな欠損を抱える。
つまり、自分が現在その枠組みに基づいて世界を見ている枠組みそのものの有効性・妥当性を疑わせる情報を受容できないという無能力が、トリヴィアルな情報をためこみ、それを即時に取り出す卓抜な能力とトレードオフされているのである。
スキームを固定化してそこに情報を詰め込むこの知的傾向は、現在の日本の若年層に広く見られる。
もちろん、わが国のナショナリズムを怒声で批判する隣国のナショナリストたちの多くもその知性の不活発ぶりでは本邦の諸君と変わらない。
「学習」とは本来学習する枠組みそのものが学習の過程で解体再生を繰り返すダイナミックな過程である。
学習を通じて学習の枠組みそのものには変化が生じない場合、それは「学習」とは言われない。
そのような傾向はやはりDSM-IVに基づいて「学習障害」的傾向と呼ぶべきだろうと私は思う。
もう一度繰り返すが、「ナショナリストのようにふるまうこと」はしばしば高度の知的緊張を要求する。だが、「ナショナリストであること」は特段の知的負荷を課さない。
特段の知的負荷を課さない知的活動を優先的に選択する知性は「あまり知性的ではない」と私は判断することにしている。
私は「マヌーヴァーとしてナショナリストのようにふるまう為政者」の狡知を愛するが、「本気でナショナリストである為政者」の知的怠惰は評価しない。
私は小泉純一郎を「狡猾な政治家」だと信じたいと思ってきたが、五年にわたるその期待はどうやら報われぬものだったようである。
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(2006-08-16 11:12)