あの日にかえりたい

2006-08-09 mercredi

暑い。
ひさしぶりの休日(なのか?)なので、家の掃除をして、洗濯物のアイロンかけをする。
たまったメールに返事を書いているうちに時間となり、大学へ。
某リサーチ会社の方と本学のインビジブル・アセットをどのように定量的に統計データ化することができるかというたいへん困難なテーマについて二時間にわたって意見交換。
このところ、先端的なメディア関係者から「女子大の有用性」についてのご下問が続く。
たぶん、このままマンモス大学が市場を独占して、競争力の弱い小規模大学や地方大学や女子大学があらいざらい淘汰されてゆくことが日本の知的未来にとって「それほどよいことなのか・・・」という疑念が心ある人々の間に兆しているのであろう。
生態系の安全にとっては、種の多様性はたいへん重要なことである。
地球上にこれだけ多くの種が繁殖している理由は、種が多様であるほうが、システムクラッシュのリスクが回避できるからである。
高等教育のリスク・ヘッジという観点からすれば、市場原理による大学淘汰は、「教育立国」の自殺である。
それに女子大は単に多様性を担保するだけの「特異種」であるだけではない。
当今の二十歳を取れば、女子の方が男子より知性の柔軟性と可塑性においてあきらかにすぐれている。
教壇に立って見ていると、私のようなデタラメなことを言い募る教師の話をげらげら笑って聴いているのはもっぱら女子の方であって、困じ果てた顔をしているものの多くは男子である。
男性は「パイプライン」が整備された「晴天型」モデルにおいては高機能を発揮するが、「雨天」「曇天」に比較的弱い。
女子の生存戦略は「全天候型」であるから、現在のような社会構造の地殻変動期にはあるいは女子の方が生き延びる確率が高いのかも知れない。
だとすれば、女子大というのは「カタストロフ・サヴァイヴァーを選択的に育てるためのエリート教育」をしている特殊な教育機関であるということだってできる。
うん、話しているうちに、ほんとにそんな気がしてきた。
“不死身 ”のかなぴょんや “極悪” サトウをはじめとする内田ゼミ生たちを見ていると、「地球が滅びる日に最後に地表に立っているのはKC生ではないか・・・」という予測もあながち空想とは思えぬのである。

家に戻ってから今度は下川先生のお稽古。
10月1日の本番まで、あと二回しかお稽古の日がない。
『土蜘蛛』の仕舞いの稽古をして、下川先生を素まみれにしてから、楽の稽古。
なんとか変則七拍子をクリアーする。やれやれ。
それから『山姥』の謡の稽古。
二箇所節を間違える。「二段落とし」というフレージングがけっこうむずかしい。
大西さんがお稽古に来たので、『吉野天人』の地謡をつける。
下川先生とデュエットで地謡をしていると、全身が共振して、たいへんよい気分になる。

家にもどって、明日の支度。
明日は横浜グランドホテルで高橋源一郎、矢作俊彦ご両人との鼎談である。
ご両人とも「グランドホテルの新館には足を踏み入れない」同盟の方なので、集合場所は旧館ロビー。鼎談は旧館の「マッカーサー・スイート」という凝りようである。
矢作さんとお会いするのははじめてである。
1969 年の春に「ダディグース」のマンガを読んでからの37年にわたる熱烈なファンであるので、どきどき。
DVDで『日本侠客伝』全巻揃えを買ったので、毎晩一本ずつ見ている。
健さんを見終わると、続いて石井輝男の異常性愛映画か西村昭五郎=団鬼六の『花と蛇』シリーズを見る。
この二本立てを見ていると 1970 年代の場末の映画館の匂いがくっきりと蘇ってきて、なんとなく切なくなってくる。
それにしても団鬼六って、全部同じ話だな。
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