現代霊性論東京ツァー

2006-07-31 lundi

「現代霊性論」東京で稼ぎツァーということで、新宿朝カルへ。
8時に新大阪駅で釈老師と待ち合わせ。
車内で3時間おしゃべり、新宿まで移動しつつしゃべり、ロイホで昼ごはんを食べつつしゃべり、会場に着いたときにはすでに5時間半しゃべった後であった。
それでもめげずにさらに2時間会場でしゃべる。
総計7時間半。
まことにネタの尽きない二人である。
『現代霊性論』はこれまでの授業の分と、大阪朝カルの3回分と、今回の「出稼ぎツァー」を合わせて一冊の本になって、来年はじめには刊行予定である。
これは宗教論としてはかなり「変」な本だけれど、お買い得です。

講演が終わってから、本願寺のフジモトさん、遠山くん、医学書院の白石さん、バジリコの安藤さん、学研の増田さん、幣旗さん、そして橋本麻里さんら辣腕エディター軍団に拉致されてハイアットのバーでプチ打ち上げ。
途中から分子生物学の福岡伸一先生(『もう牛を食べても安心か?』、『プリオン説はほんとうか』の著者)が参加される。
福岡先生とお会いするのははじめて。
文春の嶋津さんに『もう牛を食べても安心か?』を薦められて読んで、おおいに蒙を啓かれ、『私家版・ユダヤ文化論』でも引用させていただいた。
さっそく「で、米国産牛肉輸入再開でY野屋の牛丼はどうなりますか?」という話になる。
私のぶしつけな質問のせいで、福岡先生は最初の一杯に口をつけるまもなく、牛肉をめぐる長い物語をすることになる。
「牧畜と屠畜と食肉」についてはご存知の通りたいへんきびしい禁忌がある。
この禁忌は世界各国さまざまな意匠をまとっているが、本質的には同一のものではないかと私は考えている。
それは「生き物の肉を食う」という行為そのものがはらむ魅惑と嫌悪のアンビバレントな本質におそらくは由来する。
Y野屋の牛丼は米国産牛肉の輸入停止で食べられなくなった。
国産牛肉やオージービーフで代用ができないということから、それがたいへんに低価格の材料から作られていたことは容易に想像される。
この驚異的低コストの背景には歴史的に形成されてきたアメリカの巨大食肉産業の収奪構造がある。
アメリカの食肉産業は5大屠畜業者が支配している。
牧畜屠畜食肉処理ロジスティックから小売までが、完全にコントロールされているのであるがその内実は・・・
もちろん、その詳細はお食事中の人もいることであろうから、このようなところでお話しするわけにはゆかない。
それに、こんな話は日本だからできるので、アメリカであんな本を出したら、いまごろは「ハドソン川に浮いてます・・・」と福岡先生は遠い目をしておられた。
「肉の話」は奥が深い。
日本では屠畜は被差別部落問題と直接リンクしているので、メディアはこの問題には絶対に踏み込まない。
ハンナンのような食肉をめぐる組織的な犯罪が摘発されても、メディアは行政や政治家たちも巻き込んだその構造の解明には決して積極的にならない。
それは PC 的な立場からの政治的糾弾におびえているだけではなく、ジャーナリスト自身も気づいていない心理的禁忌が作用している。
この問題にはなるべく触れないほうがいい。
みんながそう思っているのである。
なんでもあきらかにすればよいというものではない。
長く生きてくるとそういうことがだんだんわかってくる。
「牛」にかかわる禁忌は別に近代的なイデオロギーではない。
網野善彦によると、中世社会においてはすでに「牛飼い」というのは異形のものとされていた。
当時知られている中でももっと巨大で獰猛な生物である「牛」を統御できる特殊能力をもつものだったからである。
だから彼らは童形であり、童名を名乗り、ある種の特権を享受していた。
アメリカでは「カウボーイ」がこれに相当する。
「カウボーイ」が最底辺の肉体労働者から神話的イコンに改鋳されたのは、1910年代、ハリウッド映画においてである。
それ以前の開拓時代、カウボーイはひさしくもっとも賃金が安く、もっとも過酷な労働であった。
だから、カウボーイには黒人、インディアン、中国人、日本人、メキシコ人たちが大量に含まれていた。人種障壁のない数少ない職業だったからである。
19 世紀の終わりにフロンティア・ラインが太平洋岸に到達し、アメリカ開拓時代が終わると同時に、カウボーイは大量に失業する。
そして、失業したカウボーイたちのかなりの部分が「ハリウッド西部劇映画のエキストラ」に流れ込んだ。
カウボーイには人種障壁がないが、ハリウッドのエキストラには人種障壁がある。
だから、アメリカの西部劇映画には 1990 年代まで、ひとりの黒人のカウボーイも中国人のカウボーイも出てこなかったのである。
ハリウッド・メジャーの映画に登場した黒人カウボーイは、私の知るかぎりでは、『シルバラード』のダニー・クローヴァーをもって嚆矢とする。
『シャンハイ・ヌーン』でジャッキー・チェンのカウボーイ・スタイルに私たちは違和感を抱くが、これは違和感を抱く私たちの方が間違っているのである。
ハリウッドが一種の触媒となって、「最底辺の労働者」はアメリカの「神話的イコン」に改鋳された。
排除と魅惑のアンビバレンスの力学はここにも働いているように私には思われる。
私が知っているもう一つの例は、フランスのラ・ヴィレットである。
パリ郊外のこの屠畜業の街がフランス・ファシズムの発祥の地であり、19世紀末から20世紀なかばにかけて極右の政治運動の拠点であったことはフランス政治史の中でほとんど挿話的にしか論及されない。
スペイン王家の血統を引き、教皇から受けた爵位を継承したモレス侯爵は、最初アメリカのサウスダコタでカウボーイたちのうちに熱狂的な支持者を見出し、戻ったフランスで極右戦闘集団「モレス盟友団」の団員をリクルートしたのはラ・ヴィレットの屠畜業者の中からであった。
モレス盟友団の制服は「カウボーイハットと紫色のシャツ」であった。
侯爵は団員にまったく思想的統一性を求めなかったが、制服の着用はこれを厳命した。
貴族とカウボーイと屠畜者の同盟。
それが世界最初のファシスト集団となった。
この「貴種」と「異形」の連合は、網野善彦が『異形の王権』で活写した後醍醐天皇と被差別民たちの大連合(建武の中興)に構造的に深いところで通じているように私には感じられる。
肉と屠畜の問題は世界史の中のどこでも、濃密な政治的=宗教的幻想を帯電している。
イスラム教徒やヒンドゥー教徒をはじめとして、多くの社会集団が食肉に関するなんらかの宗教的禁忌をいまも固く保持している。
明治以降、そのような食肉についての禁忌を棄てたはずの私たち日本人の場合でも、それは変わらない。
牧場でのんびり草を食べる家畜の姿に私たちは何の不快も感じない。
パックされた食肉を料理して食べる場面にも何の不快も感じない。
だが、このどちらかといえば「愉快」な二つの風景を架橋するプロセスは私たちの視界から厳重に隔離されている。
ギャルパール・ノエの映画『カノン』は冒頭数分間馬の屠殺場面が続く。
人間が殺され、手足が飛び、血が噴き出すスプラッタ映画を「娯楽」として享受できるタフな観客もこの映像には耐えることができないだろう。
それはこの場面が「みてはいけないもの」を見せているからである。
家畜が食肉に「変換」される工程については、そこで何が起きているかを、隠蔽するにせよ、神話化するにせよ、「あきらかにしない」という点については人類史的合意が成立している。
それは、おそらく食肉習慣の起源に「抑圧された記憶」が存在するからだろうと私は考えている。
そして、すべてのトラウマがそうであるように、それを言語化できないという当の事実が人間の人間性を成立させているのである。
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