ようやく夏休みらしくなってきた

2006-07-27 jeudi

ようやく、すこしだけ夏休みっぽい気分になる。
でも、朝起きて、大学へ。
学生のいないキャンパスで10時からフランスへの語学研修の最終説明会。
ブザンソンのフランシュ=コンテ大学の応用語学センターで語学研修するようになって、14年になる。
第一回は92年の夏休み。
最初の年は「おまけ」にイタリア旅行をつけた。
オガワマキちゃんやカナ姫とベネチアで『ベニスに死す』ごっこをして遊んだことを思い出す。
不眠のオガワもそのころは健康に日焼けした爆睡少女だったのだが。
大学主催の教育事業に認定されるまで3年かかった。それまでの間は個人的に学生たちを集めて、私費でフランスまで行っていた。
でも、おかげでベトナムのビンくんや、フランス人合気道弟子のブルーノくんと知り合うことができた。
2006年はたぶん8回目のはず。
研修は隔年だし、私ももうすぐ停年だから、あと行けるのは2008年、2010年の二回だけである。
ブザンソン通いもあと3回か・・・
そう思うと、なんだかちょっと切ない気分になる。
私が退職したあとも語学研修を引き継いでくれる人がいればよいのだが、私より若いフランス語教師はいないので、私の退職とともに、この研修も終わってしまうのかもしれない。
今年の参加者は10名。
同時期にパリにジローくんがいるので、例のごとくカルチェ・ラタンでたらたらご飯を食べたり、お酒を飲んだりすることになる。
パリでジローくんととぐろを巻くのはいったい何回目になるのだろう。
私が最初にパリに行ったとき(1974年の夏休み)、パリのジローくんの下宿に転がり込んで、3週間居候して以来だから、今度で四回目。
96年にブザンソンに一緒に行って、帰りにスイスを旅行をしてローザンヌやモンブランに行った。
2001年は、亡きヒロ子さんも一緒だった。
バスチーユ広場の近くで何度かジロー夫妻とご飯を食べた。
帰りの飛行機に乗る前々日が「9・11」で、学生がホテルのドアをがんがん叩いて「先生、何か起きたらしくてテレビで臨時ニュースやってるんですけど、よくわかんない!」と言ってきた。
ニュースでは貿易センタービルに飛行機が突っ込む映像を繰り返し放送していた。
翌朝の『フィガロ』の一面の見出しは Nouvelle Guerre「新しい戦争」だった。
いろいろなことがあった。
今年も楽しい旅行になりますように。

午後、日経新聞の取材。
「女子大無用論」という世論の趨勢に抗って、「女子大有用論」を語っている私に「どうしてそういうことになるんですか?」というお尋ねである。
1時間にわたって滔々と教育の根源的再編について熱く論じる。
こんな大風呂敷、とても記事にまとまりそうもないですねえ・・・と肩を落として記者は帰って行った。
すまない。
だが、昨日も書いたことだが、いま教育を蝕んでいるのは区々たる制度的な手直しでどうにかなるものではない。
「学ぶ」ということの原理が問われているのである。
「学ぶ」というのは金を出して教育サービスをオン・デマンドで購入することではない。
「学ぶ主体」が「消費主体」として自己規定し、「短期的に確実なリターンが確保されたクレバーな教育投資」をめざす限り、そこにはどのような「ブレークスルー」も到成しない。
ひたすら、「同一者」le Même の再生産が続くだけである。
そういう世の中にしたくないので、教育をなんとかしなくちゃまずいすよということを申し上げているのである。

夜はゼミの四年生たち11名が乱入してくる。
前期の「打ち上げ」宴会だそうである。
「なんだよまたかよ」と口を尖らせたが、学生諸君によると、このゼミは一年以上宴会をしていないので、わが家で宴会を開く「当然の権利」があるらしい。
そうですか、そういうものがあるんですか。
ゼミが大学院をいれて四つあって、卒業生たちも学年毎に入れ替わり遊びに来るので、だんだんどれがどれだかわからなくなってきた。
一品持ち寄りなので、私は久しぶりに「颱風カレー」を作る。
美味い。
講談社のS尾さんにいただいたモエ・エ・シャンドンとよく合う。
ムライチヒロ&イセカナコのマジックショーのあと、「殿」のサプライズ・バースディ・パーティに雪崩れ込む。
ゼミ仲間のサプライズのために二日もかけて手品の種を仕込むとは・・・よい子たちである。
みんなどんどん大人になってゆく。
あと半年で卒業である。
早いね。
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