「日本のへそ」で教育を論ず

2006-07-26 mercredi

『日本のへそ』西脇市の教育委員会に招かれて講演。
中国道を走って、滝野社 IC で降りて、北へ 10 キロほど走ったところ。芦屋から車で2時間ちょっと。
教育委員会のお招きで、聴衆は市の教育長、教育委員の方々である。
全員、教育現場の当事者である。私も高等教育の現場の人間である。
現場のもの同士でぐっと踏み込んだ話をするつもりででかける。
私をお呼びくださったのは教育長ご本人である。
こう言っては申し訳ないが、これまで自治体の教育長といったら、事なかれ主義で因循姑息なオヤジと相場が決まっていた。
でも、そんな人が私のような態度の悪い人間を講演に呼ぶわけがない。
教育現場も、もうそんな事大主義のイエスマンに任せてはいられないというところまで追い詰められてきたということである。
お会いした教育長はまことにストレートで爽快な「現場の人」であった。
日本の教育は、原理主義的きれいごとなんかいくら言ってももう始まらないところまで来ているという危機感を教育長は私と共有する。
今の状況では、「誰が日本の教育をこんなにしてしまったのか?」というような他責的な構文で「犯人探し」をしても始まらない。
だって、教育問題には被害者だけがいて、加害者がいないからだ。
「日本の教育をこんなにしたのは私です」という有責感をもっている人間は文科省にも教師の中にもメディアにも保護者の中にも、どこにもいない。
誰も名乗り出るはずがないんだから、「責任者探し」をしたってはじまらない。
「誰がこんなにしちゃったのかは知らないけれど、とにかく私は何のはずみか、たまたま現場に居合わせてしまった。居合わせた以上は、私がなんとかするしかない」と考える人たち(たとえ少数でも)を糾合して、とにかく手持ちの使える限りのリソースを動員して、できるかぎりのことをするしかない。
私はそう思っている。
そう思っている現場の先生たちは多いはずだ。
メディアではジャーナリストや教育評論家たちが快刀乱麻を断つような発言をされている。
でも、前にも言ったけれど、彼らの弁舌がさわやなのは、教育に関しては何を言っても誰からも効果的な反撃がなされないことがわかっているからである。
どんな過激なことを言っても誰からも反論がされないことがわかっているときにだけ過激になれる人間のことばに掬すべき洞察が含まれている可能性を私は高くは見ない。
日本の教育はどうしてこんなになってしまったのか?
私たちはこの「荒廃」にどんなふうに加担してきたのか?
というテーマで熱く90分間しゃべる。
このままの状態が続いてゆけば、10年後に日本社会は「漢字がよめない、四則計算もできない、アルファベットもよめない、学ぶということの意味がわからない、労働するということの意味がわからない」大量の「元・子ども」をかかえ込むことになるだろう。
それは社会的能力を欠いた彼ら自身にとっても不幸なことであるが、それ以上に、彼らを保護するために莫大な社会的コストを要求される国民全体にとっても不幸なことである。
それが弱肉強食の市場原理の要請するところならやむをえないという「リアリスト」たちもいるだろうが、もう少し長いスパンで考えることはできないのか。
「学ぶ」ことができない、「学ぶ」ということの意味がわからない子どもたちがいま組織的に作り出されている。
家庭でも、学校でも。
それは子どもたち自身の責任ではない。
彼らは被害者である。
「学ぶ」とはどういうことか、それを誰も彼らに教えてくれなかったのだから。
どうやって、彼らを再び「学び」に向けて動機づけることができるのか・・・という議論をしている以上、「彼らは『自分探し』の結果、社会的階層降下の道を自己決定したのだから、その社会的劣位は彼らの自己責任において引き受けられねばならない」という物言いに軽々に同意するわけにはゆかない。
子どもたちは「学び」への動機付けを生得的にもっているわけではない。
彼らを「学び」へ導くのは大人たちの責任である。
その責任を放棄して、子どもたちに「自分にとって意味があると思うことだけをしなさい」といえば、子どもたちが「学び」に向かうはずがない。
そんなことをすれば、子どもの幼い頭でも理解できる動機付け(「金」とか「名誉」とか「権力」とか「エロス的愉悦」とか)だけを支えに学校に通い続け(「幼児の動機」を抱え込んだまま大人になる)子どもと、子どもの幼い頭で「おもしろくなさそうだから、やめた」と学びを放棄した子どもの二種類の「成長を止めた子どもたち」が生み出されるだけである。
そうやって子どもたちの成長を止めたのは大人たちである。
子どもたちに自己決定したことの自己責任を問うわけにはゆかない。
子どもたちを自己責任論で切り捨てるよりも、「自分探し」とか「自己決定・自己責任」とかいう有害なイデオロギーを宣布し、いまも宣布し続けている行政やメディアや評論家たちに口をつぐんでもらうことの方が先だろうと私は思う。
「幼児的なモチベーション」で今日本社会の全体が動いている。
「オレ的に面白いか、面白くないか」と「金になるかならないか」というふたつの基準が今の日本人たちの行動を決定するドミナントなモチベーションになっている。
だが、これは「六歳児にもわかるモチベーション」である。
こういうことばを口にする人間は(たとえ実年齢が60歳になっていても)六歳のときから少しも知的に成長していないのである。
だが、本人たちはそのことがわからない(知的に六歳だから)。
学びを忘れた日本人はこうして「国民総六歳児」への道を粛々と歩んでいる。
いま、日本の大学は40%が定員割れをしている。
採算不芳部門を切り捨てて、適切なリストラを果たせば、そのうちのいくらかは生き残ることができるかもしれない。
しかし、その一方でマンモス私大はこの局面で拡張路線をとり続けている。
現在4%のマンモス私大が志願者の45%を集めている。
遠からず、このパーセンテージは60-70%にまで上がるだろう。
そのようにして、1200ある大学短大のうちの半数近くが「市場から淘汰される」として、それは市場の要請するところだからそれでよいのだといえるのだろうか?
大学の統廃合や淘汰が進行すれば、いずれ「無大学県」も出てくるだろう。
大学は地域の教育研究の中心であると同時に、図書館、情報施設、スポーツ施設、緑地など多様な文化的機能を担っている。それが「市場に淘汰された」という理由で荒れ果てたゴーストタウンになることが地域住民にとって、それほど歓迎すべきことなのであろうか?
少数の学校法人が高等教育を占有し、教員数数千、学生数数十万というような大学がいくつか残り、地方都市ほどの規模の巨大なキャンパスの中で、教員も学生もカフカの『城』の住民たちのように、大学行政部門のテクノクラートたちが陣取る不可視の「象牙の塔」を見上げるような大学において、研究教育が多様で豊かな展開を遂げるだろうか?
私の貧しい想像力を動員するかぎり、大学淘汰のゆきつく先に見えるのは荒れ果てた風景ばかりである。
これら教育の荒廃の全件に共通するのは、「市場原理」「経済合理性」で教育を論じる風儀である。
教育を「畢竟、金の問題」と言い切るリアリズムがそのすべてに伏流している。
「金で買えないものはない」と豪語するグローバリストと、「弱者にも金を分配しろ」と気色ばむ人権派は、教育にかかわる難問は「金でなんとかなる」と信じている点で、双生児のように似ている。
日本の教育は「金になるのか、ならないのか」を問うことだけがリアリズムだと信じてきた「六歳児の大人」たちによって荒廃を続けている。
どこまで日本を破壊すれば、この趨勢はとどまるのであろうか。
私にはまだ先が見えない。
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