Take good care of my baby

2006-07-23 dimanche

土曜日はオープンキャンパス。
大学を挙げての「人集め」イベントである。
どの大学でも知恵を絞って、いろいろなことをやっている。
本学も学生スタッフを大増員して、新しいアイディアをいろいろ工夫した。
私も企画広報室に命じられて特別講演というものを行った。
「立っているものは親でも使え、客寄せにはパンダでも使え」というプラクティカル(つうより非人情)な態度を私はもとより高く評価するものであるが、よもや自分が「パンダ」になる日が来ようとは思わなかった。
「パンダ」講演のタイトルは「僕が女子大学を薦める訳」。
協賛には角川書店ならびに講談社が手を挙げてくれて、事前の広報に一役買ってくれた(どうもありがとうございました)。
長梅雨のあいまの奇跡的な快晴の土曜日なので、心配していたよりはお客さんも集まって下さったようである。
90分ほどしゃべって、それからサイン会。
高校生がサインを求めて三人来てくれた。
ありがたいことである。
なにしろこの子たちのための講演なのである。
「本、読んでくれてるの?」と訊くと、「こくり」と小さく頷いてくれる。
「だったら、女学院に来てね!」と手をとって懇願する。
ついでに、ネコマンガにふきだしで「来てね!」と大書する。
ほんとに来てね。

講演後、かねてからのお約束の『身体知』の共著者プチ打ち上げイン西宮のために東京からお越し下さった三砂ちづる先生、角川のE澤さん、講談社『週刊現代』のS尾さん、朝日新聞『大学ランキング』のK林さん、それにいつのまにか紛れ込んでいた “いつもの” ウッキーと「花ゆう」へ。
(今回の打ち上げは角川書店さまの「おごり」であった。さすが、角川。ごちそうさまでした! S尾さんからはモエ・エ・シャンドンを頂いた。こちらもごちそうさま!)
三砂先生と再会するのは対談が終わってからはじめてである。
でも、メールのやりとりで、「住民税地獄」の苦しみなどについては近況を存じ上げていたのである(三砂先生は去年『オニババ』のベストセラーがあったせいで、今年から巨額の住民税で給与の大半がもっていかれていると嘆いておられた)。
うかつにベストセラーなど書くものではない。
いつものように三砂先生はお着物。
三砂先生は研究の外部資金が入ったので、今年は「おむつの研究」で国内外を回られるそうである。
日本ではいま「二歳までおむつをとる必要はありません」ということが育児書でいわれているそうだが、三砂先生によると、これはぜんぜん育児の方向として間違っている。
母と子が(ねんねこ状のもので)ぴったり密着している文化では、子どもがところきらわずじゃあじゃあ排便すると母親だって困る。
そのせいで、子どもの排便予兆の微妙な身体的シグナルに対して、母親は敏感になる。
だいたい子どもがおしっこするのは「おっぱいをのんだあと」とか「眠りから覚める直前」とかある程度生理的な規則性がある。
その「気配」を母親が察知できれば、「ほい」と身体から離して、排便させちゃえばいいのである。
それならおむつは要らない。
現に生後2週間でおむつを取ってしまう社会もあるんだそうである。
2週間というのは、子どもが「排便する前に発するシグナル」がどういうものか学習するための時間である(当然、子どもひとりひとりでそのシグナルの出し方が微妙に違うからだ)。
シグナル読解ができれば、子どもがまだことばができなくても、「おしっこするよ」「うんちするよ」というサインが母親には伝わる。
母親にシグナルが読めればおむつは要らない。
ということを科学的に論証しようとする研究だそうである。
面白そうである。
ところが、この研究に対してすでに微妙な圧力がかかっているそうである。
「おむつは要らない」ということを論証する研究なのであるから、当然「紙おむつメーカー」にとっては死活問題である。
三砂先生が「むかしの女はナプキンなんか使わなくてもコントロールできた」という論を展開したときには、「ナプキンメーカー」からは「では、そういうかた向きの新製品開発にご協力を・・・」というオッファーがあったそうである(資本主義はしぶとい)。
紙おむつメーカーが慌てるのはよくわかる。
もうひとつの圧力源は、ご想像のとおり、フェミニストからである。
「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC (Politically correct) とされるのは、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」からである。
「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制のイデオロギーなのである(とほ)。
だが、よく考えて欲しい。
「おむつが要らない」ためには子どもの発信する微細なシグナルに対する育児する側の感受性が必要である。
このようなシグナルが適切に受信されることは、子どもにとって単に生理的な不快(おしりがぐじょぐじょする)が最小限で済むという以上に重要なことだ。
それは「私の発信したシグナルがたしかに聴き届けられた」というコミュニケーションに対する信頼が醸成されることだからである。
新生児が生まれた最初の数週間のあいだに「私の発信するシグナルは(ごくわずかな身振りや身体の震えや体温の変化だけで)適切に受信された」という経験をすることは、その後の人生における対人コミュニケーションへの信頼の深さに決定的な影響を与えるだろう。
いま「私の発信するシグナルは・・・」と書いたけれど、もちろん鏡像段階以前の幼児に「私」などというものはない。
「私」はコミュニケーションが成就した後に、「受信者が『送信元』として認定したもの」というしかたで事後的に獲得されるからである。
つまり、「おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。
これがそれから後の子どもの人生にどれほどゆらぎない基礎を与えることになるであろう。
どれほどの「余裕」と、「お気楽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらすことになるであろうか。
そんなものよりも、まずもっと確実で、実利のあるものが優先すると言うフェミニストたちの意図が私にはよく理解できない。
コミュニケーションに対する深い信頼をもっている子どもをひとり育てることは、権力や財貨や情報や名声や文化資本を得ることよりもずっとずっとたいせつなことだと私は思うからである。
「それはあなたが男で、『そういうもの』を全部あらかじめ占有しているから言うことができるのだ」とフェミニストたちはいつも言う。
それは違うよ。
男の中にも「そういうもの」と全然無縁の人間はいくらもいる。
どうして、そういう男たちは「男であるだけで享受できるはずの特権」から疎外されているのか、フェミニスト諸君は考えたことがあるだろうか。
それは、彼らには、どんなときもいつもそばで支えてくれる配偶者や家族や友人がおらず、引き立てる師匠も先輩がおらず、声援を送ってくれる弟子や期待をかけるファンもなく、情報を提供してくれる協力者も、能力を発現する機会を探し出してくれるサポーターも、どれも持たなかったからだ。
それは彼らがコミュニケーションを通じて信頼関係を構築する能力を致命的なしかたで欠いていたせいである。
人を信じることのできない人間を信じてくれる人間はいない。
コミュニケーションへの深い信頼をもつことのできないものは、それが男であれ、女であれ、つねに、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。
もし、クールかつリアルな立場から、社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人がいたら、私は「おむつが要らない」こどもを育てるところから始めた方がいいとアドバイスするだろう。
自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。
三砂先生の「おむつ研究」の成果がどんなかたちで結実するか愉しみである。
そういえば、キャロル・キングの最初のスマッシュ・ヒットであったボビー・ヴィーの『Take good care of my baby』は「おむつ」のCMソングとしてヒットしたそうである。
あらためてジェリー・ゴフィンの歌詞を読むと、これがかなり深読みできるんだな。
つまりこの歌の中の my baby はほんとに「ぼくの赤ちゃん」で、ボビー・ヴィー父さんが手抜き育児をしたせいで、「君」が持って行ってしまうのである。

Take good care of my baby「ぼくの赤ちゃん、だいじにしてね」
Be just as kind as you can be「ほんとにほんとにやさしくしてね」
And if you should discover that you don’t really love her「もしあまり好きじゃないような気がしたら」
Just send my baby back home to me「すぐにぼくに返してね」

うーむ、そうだったのか。
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