若い研究者たちへ

2006-07-21 vendredi

フランス語の試験をすませてから博士論文の中間発表。
私が主査でレヴィナス論を書いている博士課程の院生がいて、彼女の論文の途中経過を拝聴して、ご指導するというイベントである。
大学院の指導を担当している教員十名ほどにもご案内を出したのであるが、全員欠席。とほほ。
聴衆は院生三名と私だけ。
副査二名のうち一人は学外者という規定があるので、大谷大学の門脇健老師に大役をお願いしたらご快諾頂いた。
浄土真宗の学僧たちは釈老師といい、みなさん善い方ばかりである。
でも、その老師も今日は大学で自己評価委員会があってご欠席。
実は門脇老師にはまだお会いしたことがない。
メル友である。
老師は哲学の方なのであるが、先般ドイツでレヴィナスについて学会発表をされたおりに拙著へも言及してくださった。
自分の書いたものがドイツ語に訳されて外国の学者の前で朗読されている風景がうまく想像できない。
レヴィナス解釈に際して諸説をさしおいて「ウチダ説」を採用するとは、老師も「こわいものしらず」というか「まずいもの好き」というか、とにかく奇特な方である。
文学研究科比較文化学専攻で最初の博士号学位請求者のケースであるから、襟を正して中間発表を拝聴する。
個別的な感想についてはここには書かない。
一般論として繰り返し注意したことは、もう何度も書いたことだけれど、もう一度書く。
それは「学術の本質は対話性だ」ということである。
学術論文は査読者に差し出すものではない。
ほとんどの研究者はそう考えているが、私はそう考えない。
研究というのは、自分の「後から」同じ主題について考究することになる「いまだ存在しない研究者」のために里程標を打つことである。
極論すれば、その論文を読んだことによって、はげしく知的興奮をかきたてられ、同じ主題について「自分もまた一生かけて研究したい」と思うような若い世代を創り出すことである。
研究の本質は、「すでに存在するものに基づいて査定されること」ではなく「いまだ存在せざるものを創造すること」なのである。
そういうマインドセットを決めれば、どういうふうに書けばいいのかということはおのずからわかってくる。
自分が何をしようとしているのか、どうしてその学的主題の選択には必然性があるのか、それを非専門家にも納得がゆくように説明するところからまず話は始まらなければならない。
これが最初の「挨拶」である
それに続いて、当該主題についてのこれまで積み上げられてきた業績についての「表敬」が行われる。
当然のことながら、学統というのは「知的贈りものの次世代への継承」というダイナミックな歴程そのものだからである。
自分が知的なリソースの贈り手でありうるのは、自分もまた先行する研究者たちから豊かな贈りものを受けとったからである。
先行研究に何も負っていないまったくインディペンデントな学術研究などというものは存在しない。
だから、先行世代からの学恩に対して十分にディセントであること。
先行研究がどれほど「時代遅れ」に見えようとも「短見」に映ろうとも、その先行研究があったからこそ、どういう知見が「時代遅れ」であり「短見」であるかが後続世代に明らかにされたのである。
研究史外観や先行研究批判というのは、「こんにちは」のあとに、「ひさしくご無礼しておりましたが、今日は近くまで参りましたので・・・」とか「先般はまことに結構なものを頂きまして、今日はその御礼に・・・」とか続けるのとまったく同じことである。
自分のいまの仕事はいつだってある「続きもの」のなかの一こまである。
誰かが私をインスパイアしたのである。
その消息について論及するのが先行研究批判である。
このふたつの挨拶ができたら「博士」合格である。
私はそう考えている。
その人の学者としての器量がどの程度のものかは、「最初の挨拶」を聴いただけでわかる。
自分がどういう知的伝統の「コンテクスト」の中に位置づけられているのか。
それを適切に言うことのできるクールで中立的な知性。
そのコンテクストの中に置かれてあることを「幸運」として受け止めていること。
先行世代への感謝の気持ちと、後続世代への配慮があること。
それが整っている研究者なら、どんな主題についてもクオリティの高い仕事をしてくれるに違いない。
知と愛。
学者に求められているのはそれだけである。
院生諸君の健闘を祈る。
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