麻雀戦国時代

2006-07-16 dimanche

ひさしぶりのオフなので、終日原稿書き。
共同通信と日経の月刊連載の原稿は週末に(会議と対談と宴会と麻雀のあいまに)書き上げてしまったので、残った「大物」である江弘毅さんの講談社新書「街的本」(正式タイトル知らない)の解説にとりかかる。
まず家の掃除と洗濯とアイロンかけ。
家の中がきれいになってないと、よい原稿は書けない。
明窓浄机に端座し、ずずとコーヒーを啜り、モーツァルト『魔笛』をBGMにセットしてから徐に書き始める。
前にも書いたとおり、江さんのこの本を私は「現代における『「いき」の構造』」と見立てた。
九鬼周造の古典的著作は名前だけはよく知られているけれど、当今の若者はたぶんほとんど読んだことがないだろう。
こんな文から始まる。

「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。(九鬼周造、『「いき」の構造』、1979年、岩波書店、11頁)

九鬼周造は「粋(いき)」という日本の伝統的な美的感覚の分析を比較文化的な視点から試みる。
「いき」は他の外国語に同価値の語をもたない。
「シック」chic も「エレガント」elegant も「ラフィネ」raffiné も「コケ」coquet も、「いき」と語義は似ているけれど、語の意味するところの「幅」や「奥行き」が異なっている。
例えば、「シック」にはエロティックな含意がない。
でも「粋」と「野暮」の区別がもっとも頻繁に言及されたのは遊里の作法、男女の交情の場においてである。
「コケ」には性的媚態が含意されるが、ベタで下品な色気も「コケ」である。
とりあえず英独仏語には同価値の語がない(らしい)。
だから「いき」というのは日本固有の種族的な美的概念である、というふうに九鬼の議論は進む。
わかったよ、だから何なんだよ、とイラついている方もおられるかも知れないが、こんなところでイラつかれては困る。
このあと話はもっとややこしくなる。
九鬼はこう続けているのである。

我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解釈する異端者たるの覚悟を要す。すなわち「いき」を単に種概念として取り扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。(18頁)

『「いき」の構造』は高校生の夏休みの課題図書のリストに入っていたりするので、勘違いした高校生がうっかり、「あ、薄いから、これにしよ」とか選んでしまうことがあるが、高校生が読むものではない。
ネタは遊里の作法や着物の着付けや清元の節回しのことで、それを哲学の用語で解説しているのである。
『五人廻し』も「抜き衣紋」も「盤渉」も「意味わかんね〜」という高校生にははなから話が見えないところへ持ってきて、ラテン語哲学用語の乱れ撃ちである。
文庫本買って7頁読んだところで、先を読み続ける意欲を失った方も多かったであろう。
だが、ややこしい話を噛み砕いてご説明するのは私の得意とするところである。
ご説明しよう。
九鬼が言ってるのは、「いき」という概念は世界人類が共有しているものではなくて、日本固有ものだから、「いき」を通じて、万国共通で全人類が共有する、その上位概念に到達しようとしたって無理ですよ、ということである。
人類共通のある美的感覚が、たまたま日本語では「いき」という種概念で表現され、フランスでは「シック」という概念で表現され・・・というような序列にずらっと並んでいるわけではない。
「いき」は日本にしかない美的概念である。
だから、「いきの本質(essentia)」を探し求めても仕方がない。「いき」の「具体的」で「事実的」で「特殊な」な実在態(existentia)の個別事例を丹念に取り上げて、その機能と構造を考究しようではないかと、九鬼周造は提案しているのである。
ある意味では当たり前のことである。
例えば、「サル」という語が日本にある。
普通の人はこれを「サル」という人類共通の類概念の特殊日本語的な表出だと考えている。
英語では monkey といい、フランス語では singe というものを日本語ではサルという、と。
果たしてそうであろうか。
フランス語の singe には「醜い人間」、「他人のまねをする人」(このへんは日本語にも通じるものがある)のほかに、「コーンビーフ」や「ボス」という意味がある。
英語の monkey には「いたずら小僧」「うすら馬鹿」のほかに「500ドル」「中国人」「麻薬1キロ分」などの意味がある。
それに、英語では「尾のある小型サル」が monkey、「尾のない大型サル」は ape と区別するが、もちろんこんな区別は日本語にはない。
サルはサルである。
だから、例えば「サル」について考えるときに万国共通のサルの「本質」を探究してもあまり意味がないのではないか、と九鬼は言っているのである。
それより、どうして英語では monkey が「中国人」や「麻薬1キロ分」を含意することになったのか、そちらの連想を探ることの方が「アメリカ文化」について、そのイデオロギーについて、そのアメリカ人の神話的世界について知る上では有用であろう。
私ならそっちの方がだんぜん面白い。
話を戻そう。
「街的」の話をしていたのであった。
九鬼は「類概念」や「本質直観」を求めたって、文化のことはわからないぜと書いている(書いてないけど、書いているのである)。
現に、九鬼の本をいくら読んでも「いき」の個別事例についてはいろいろ教えてもらえるが、「いき」の本質が何かということは、やっぱりよくわからない。
というのは、すべての「いき」なる事象に汎通的に妥当する本質があるだろうと考える人は、畢竟「いき」の essentia を求めているからである。
「いき」の本質を求める人間は、事象の具体的・個別的・特殊的な物質性 existentia の「向こう」を見たがる。
「いき」の本質さえわかれば、「いきなパジャマの着付け」や「いきなラップの歌唱法」や「いきな貸借対照表のつけ方」などが芋づる式にわかるだろうと思っている。
だが、「いき」の網羅的リストをクリックひとつでゲットしようとしている人間がいたら、そういう人間こそ、きわめつけの「野暮天」であると九鬼周造は思っているのである。
本質を求めてはならない。
「事物に還れ」と九鬼周造は言っているのである。
これは九鬼が学んだハイデガーのそのまた師匠のおことばである。
「いき」は事物の具体性・物質性のうちに深く踏み込むものにしか感知することのできないものである。
わかりにくいようであれば、試みに私が「いき」と「野暮」のリストを作ってみよう。

フジテレビが野暮で、NHK ラジオが粋。
アサヒスーパードライが野暮で、サッポロ黒ラベルが粋。
ワープロが野暮で、書道が粋。
ラップが野暮で、謡が粋。
ベンツが野暮で、BMW が粋。
スピルバーグが野暮で、ティム・バートンが粋。
『嵐が丘』が野暮で、『自負と偏見』が粋。
ロレックスが野暮で、シチズンが粋。
「ひかり」が野暮で、「こだま」が粋。
iPod が野暮で、電蓄が粋。
和歌山ラーメンが野暮で、讃岐うどんが粋。
ミネラル・ウォーターが野暮で、コカコーラが粋。

こんなリストはいくらでも続けられるが、きりがないので、このへんにしておく。
昔から「ヒップ」と「スクエア」、「イン」と「アウト」、「○金」と「○ビ」・・・とこの手の遊びはいくらでもあるが、この遊びの興は「なんとなくわかるけど、どうしてそうなるのか、いえない」というあいまいさのうちにある。
このリストの「粋」と「野暮」を全部ひっくり返しても、それはそれで「一回半ひねりした、憎いほどの趣味のよさ」に思えなくもないから不思議である。
だから、こんな外形的なリストには何の意味もないのである。
「いき」な人というのがもしいたとすれば、それは「いき」の網羅的なガイドブックを手にして、自分の選択のひとつひとつをそれにしたがって律している人ではない。
「いきな人」というのは存在全体が「いき」な人のことである。
そういう人は洟をかんでも「いき」だし、満員電車の中での「押され方」が「いき」だし、スーパーのレジでおつりの1円玉を受け取るときも「いき」である。
ニーチェ風に言えば、「いきな行為」や「いきな選択」があるのではなく、「いきな人間」がやることは全部「いき」なのである。
「いき」というのは属人的な現象である。
本質なんか、ない。
「いき」な人は身体の粒子が細かい。
だから、そのときそのときの現実の「なまもの」とのインターフェイスの肌理が細かい。
洟をかむときでも、ティッシュの繊維の襞への入り込み方が深い。
ティッシュに触れつつ、ティッシュから触れられている。
人がティシュか、ティシュが人か・・・鞍上人なく、鞍下馬なく、人とティッシュが天然のまま一体となっている。
だから動きに「あまみ」が出る。
外界の事象のうちに深く入り込み、また事物によって深く入り込まれている人は、どんな場所にいても「つきづきしい」。
外界の事物への開放性、インターフェイスの肌理の細かさ。
古人はそれを「いき」と称したのである。
江さんが「街的」ということばに託しているのは、おそらくはそのような「事物との相互嵌入」のことだと思う。
「いなかもの」にはそれができない。
「人より先んじて情報を手に入れたり、人より多く情報を得ること、それを消費に直結させることが、他人より優位な位置に着くことであり、それが『都会的』であると信じて疑わない類の感性が、『いなかもの』をつくりだしている。」と江さんは書いている。
「いなかもの」たちが現に食べているものや着ている服や聴いている音楽や乗っている車は、それ自体の具体的、事実的、特殊的な existentia に即して享受されているのではなく、彼ら自身の「流行感度」や「情報感度」を外形的に誇示するために、記号的に選択されているにすぎない。
そういうところでは、事物と人間の浸透的なインターフェイスは生成しない。
この点で九鬼周造と江弘毅はみごとに意見の一致をみている。

喧しい饒舌や空しい多言は、幻影を実有のごとくに語るのである。しかし、我々はかかる「出来合」の類概念によって取り交わされる flatus vocis に惑わされてはならぬ。我々はかかる幻影に出逢った場合、「かつて我々の精神が見たもの」を具体的な如実の姿において想起しなければならぬ。そうして、この想起は、我々をして「いき」が我々のものであることを解釈的に再認識せしめる地平にほかならない。

「いき」も「街的」も、人間と世界の間に起こる、一回的・具体的・特殊的・再現不能的な「出会い」の豊饒性を「出来合いの類概念」に回収し枯渇させるふるまいへのつよい違和感にドライブされている。
だから江弘毅は現代の九鬼周造なのである、という話を書く(文言はぜんぜん違うけど、そういう話である)。
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