最後の授業

2006-07-15 samedi

暑い。
ようやく授業が終わり、来週から試験期間。
しかし、先日の京阪神地区教務担当者懇談会(というものがあり、私はそこで司会をしたのです)で近隣の諸大学の事情を伺うと、なかには8月中旬まで授業をしている大学もあるそうだ。
厚労省からみの資格関連科目では、「半期15週の授業」が厳命されている。
教員が休講した場合の補講は当然。学生が教育実習などで休んだ場合も、その補講を義務づけられているだそうである。
日本の夏は亜熱帯である。
そんなところでお盆の頃まで授業をするとは・・・
理由は簡単で、日本の学生の学力があまりに劇的に低下してしまったからである。
行政はこれをどうしてよいかわからず、しかたなしにとにかく一時間でも長く学生を机に縛り付ける方法を考えた。
それが教育の規格化である。
大学でいう1単位というのは(あまり知られていないことだが)労働者の一週間の労働時間を基準に決められている(いかにもアメリカ人らしい発想である)。
1単位は45時間の「ワーク」のことである。
労働者なら月金5日8時間で40時間。プラス土曜半ドン(てもうないけど)で5時間。
これが1単位。
学生の場合は教室で過ごす1時間につき、予習復習を2時間するものという非現実的な前提がある。
だから教室で15時間授業を受けると、自宅での予復習分30時間が自動的に上乗せされて45時間と計算される。
これで1単位。
通常の大学は90分授業である。
15週だと、1.5×15=22.5時間。
予復習(しないけど)45時間を加えて、67.5時間。
どう計算しても1.5単位であるが、日本の大学はこれを2単位と切り上げる「習慣」がある。
そうやって124単位積み上げると「学士号」がもらえる。
学士号というのは(コンテンツを問わず)学習時間だけについて言えば、124×45=5580時間のワークをしたことの「証明書」である。
4年間で割ると、1年1395時間。
正月から大晦日まで、一日も休みなしに毎日3.8時間勉強しないといけない勘定である。(一日休んだら次の日は7.6時間。二日休んだら三日目に10.5時間)
そんな非現実的な大学生は日本の学士号保持者の0.01パーセントも存在しないであろう。
しかし、これが「単位」の世界標準規格なのである。
「センチ」や「キログラム」と同じで、「単位」もグローバル・スタンダードであるから、日本だけ「日本ローカルの単位は世界の10分の1くらいでいいですか・・・」というわけにはゆかない。
このまま放っておくと、いずれ日本の学士号はEUやアメリカで学士号として認定されない可能性がある。
そりゃそうでしょう。
「ジャガイモ10キロください」と言ってお金をだしたら、10キロ分の代金でお芋が1キロしか渡されず「あ、うちでは1キロのことを10キロっていうんです」じゃ、お客は怒る。
文科省はそれで焦っているのである。
とりあえず、半期に12週や13週しか開講していない大学を「大学としては認定しないぞ」という脅しをかけてきている。
そのうちに教室の出欠がカードでチェックされて(すでに多くの大学が導入しているが)、「学生が教室にいた時間数」がコンピュータで計算されて、時数が不足の学生は自動的にはじかれるというシステムになるだろう。
でも、そんなことやってもあまり意味ないと私は思う。
大学の教室でなされているのは「学び」である。
それはアウトカム(その学生がその後どれほど知的で幸福な生活を送ることができたか)によってしか考量することができないし、それを数値的に考量することはほとんど不可能だからである。
ジャック・ラカンの分析セッションは場合によっては握手だけで終わることがあった。
「学び」もそれに近い。
100時間教室にいても何も学べず、1分間で一生かけても咀嚼しきれないほどのものを学ぶことがある。
そういう原理的なことを無視して、外形的に子どもたちを教室に縛り付けても、何の意味もない。
そんな当たり前の言い分が通らない。
やれやれ。

前期最後の基礎ゼミが終わり、ゼミ生たちと記念撮影をする。
愉快な諸君であったが、この学生たちとはしばらくお別れである。
何人かは後期のクリエイティヴ・ライティングや来年度の二年生ゼミで再会することになる。
基礎ゼミからそのまま専攻ゼミに入って卒業までという学生も多い。
コンラート・ローレンツのひな鳥みたいに、大学に入って最初に見たものを「母親」だと思ってしまうのである。

会議を二つやってから朝カルへ。
一年ぶりにお会いする名越康文先生とトークセッション。
私と名越先生がバーのカウンターでしゃべっているのを、聴衆のみなさんが横で聴いているというような構成である。
ずっと前から名越先生に会って、このところの少年犯罪や家庭内での殺人についてご意見を伺いたいと思っていた。
でも名越先生はめちゃくちゃ忙しいから「遊びませんか?」とお誘いするのも憚られる。
そこで一計を案じて、朝カルでトークセッションを設定してもらったのである。
これなら日程の調整とかめんどくさいことは全部朝カル事務局がやってくれる。
おまけにギャラまでもらえる。
セッションはたいへん面白かった。いくらでも続けたかったけれど、10分オーバーしたところでとりあえず打ち切る。

それから、ぞろぞろとプチ宴会へ。
今回は「いのうえおばけちゃん」の仕切りである。
「おばけちゃん」は「長屋のヒロコ」や「極悪サトウ」や「ピン芸オガワ」の同期生である。
今は朝日新聞の生活文化部で働いている。
打ち上げに集まったのは、名越先生、釈老師、守 “ロレンツォ” 伸二郎さん、“みどりあたま” 山下さん、“魔性の女” フジモト、新潮社の足立 “猛獣使い” 真穂さん、“いつもの” ウッキー、進研アドのKC担当衛藤さん、甲野先生の秘書(新人)の滝井さん、おばけの同僚の向さん、釈老師を懼れ多くも「ヤクザです」と呼ぶ、バチ当たり弟子のドイくん、そしておばけと私。
11時まで飲んで騒いで、また名越先生と「半年後くらいにまたやりましょうね」と言い交わして大阪駅頭でお別れする。
みなさん、どうもありがとうございました。

追記:
K島税理士から「天下の公器に嘘を書いてはいけません」という訂正のメールが届いたので、お知らせしておきます。
では、K島さん、ご訂正を。

先生の原稿執筆作業は税制上「営利事業」に分類され「ない」のであります。
営利事業に分類されるのであれば、「事業所得」として、ちょっとだけ節税の道もひらかれるのであります。
大学教授を本業とされている先生につきましては、著作による収入がいかに巨額になっても、「副業」ないしは「非営利収入」と位置付けられてしまうのです。
その結果「雑所得」ということになるわけです。

なるほど、そうでしたか。
非営利収入なんですね・・・
そういうものからもお上はきっちり上前をはねる、と。
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